もしも、なんて考えることに、意味があるとすれば。
今年に入ってから、誰かの訃報を目にすることが続いている。
また会いたいと思っていたあの人だったり、
大切な人の大切な人だったり。
自分の直接のつながりもあれば、知っている人の知っている人、だったりもする。
いずれにしても共通しているのは「突然の」ということだ。
もちろん「死」は予期せぬ場合が多い。
「死」は訪れるのがいつごろかなんて、わかっていることなんてほとんどないだろう。
あまりに若すぎる、あまりにさみしすぎる突然の別れ。
そんな報せを目にして、心に浮かぶことがある。
もし、あの人の突然の訃報がいつかやってきたら、わたしはどう思うだろう。
ということだ。
そう思って、この関係を大切にしようと思える人ならばいい。
連絡をとって、お酒でも飲みながらたわいもない話をして。
なんだかんだ言って、くだらなくて笑えるこの時間がしあわせだと改めて噛み締めて、それからまた変わり映えのない明日を大事にしていけばいい。
だけど、ちょっと胸が苦しくなるのは。
本当に自分がもうすぐ死んでしまうとか、そんな突拍子もない理由でもない限り、連絡を取れないような人だ。
そう。
縁が、途切れてしまった人だ。
「ひさしぶりだね」
「元気だった?」
そんな一言ですら、かけられない人。
もうそんな終わってしまった途切れてしまった縁なんだから、
気にせず、忘れればいいと思う。
だけど、それは。
少なくとも、その人がどこかで健康にしあわせに暮らしている、という前提が必要だ。
毎日おいしいものをお腹いっぱい食べて、にっこにこ笑って、ウトウトしながらいびきとかかいて。
それくらい、平凡な、何気ない日常を謳歌しているはずだ。
という、前提が必要なんだ。
だけど、もし。
その命が終わってしまう可能性があるならば。
いや、当たり前だ。
人間なんだから。
いつかは、心臓は止まる。命は、終わる。人は、死ぬ。
だったらせめて、生きているうちに。
だけど、わからない。
自分が死ぬ、みたいな突拍子な理由もないのに、
それなのに、突然連絡先を探し当てて、それでひょっこり自分の存在を表すような、そんなことをする、勇気はない。
存在自体を拒絶されたと、ドキドキしながら冷や汗かくような時間も、もう経験したくない。
何も手がつかなくなるような、そんな内臓からも毛穴からも、全部ぜんぶ何かがブシューって出てきてしまいそうな、そんな苦しい思いも、もう、したくない。
そんな思いをしてまで、聞きたい答えは、わたしには、もう、無いよ。
そこまでして新しい縁をつなごうとする情熱は、今のわたしには、無い。
だから。
一番の望みは。
どこかできっと、今日も、美味しいものをいっぱい食べて、たくさん笑って、今日を生き抜いて、ぐっすり眠りについているのだろう。
縁のつながっている人と、何気ない、だけどかけがえのない人生を、どこかで大切に慈しみながら生きているだろう。
そんなぼんやりとした妄想が、どうか現実であってほしい、ということだけだ。
そして、わたしは、縁のつながっている人を大切に、精一杯に生きていくだけだ。
連絡しようと思っていたのに。
手紙を出そうと思っていたのに。
伝えたかったのに。
そんな後悔を二度としないために。
次を期待せずに、今に100%を注ぎ込む。
それを、ただ、忘れずに毎日を、過ごしていくだけだ。
そのためにも、自分にできることを、ちゃんと自分でわかるようにしていこう。
自分にとって大切な人は誰なのか、いつも考えるようにしよう。
両手で抱えきれるだけでいい。
片手で数えられるだけでも、十分だ。
手のひらで温度を感じられることを、忘れずにいよう。