どうせ“やる”なら徹底的にだ
“やってる”に対して厳しい人間だった。
気にするようにきっかけは小学生の頃。
名探偵コナンが大好きな友人がいた。
そんな彼には、考える時にコナン君っぽく口に手を当てる癖があった。
ある日それを見た女子が、
「○○ってカッコつけだよね。ナルシストじゃん。気持ち悪い。」
と言われているのを聞いてしまった。
親友が裏でバカにされていることを知り、大層ショックを受けた私は、その事をきっかけにカッコつけることは気持ち悪いことであり、女子から嫌われると強く心に刻み、漫画やアニメに憧れて真似していた、カッコつけた仕草を全て引き出しにしまい南京錠を何個もかけて封印したのである。
そして十数年後、大学に入り関西で暮らすことになった。
大学時代の友人はテンプレート通りの関西人でボケ倒してくるみたいなやつが多かったのだが、それに対してこれ見よがしに例えツッコミをいれてくる先輩がいた。
正直かなりサムかった。
渾身の例えツッコミをしたあとに、好楽師匠ばりのドヤ顔をしてくるのだが、その人のツッコミが刺さったところを見たことがない。
毎度毎度ドヤ顔でスベり散らかすので、ツッコミのたびに、
『うわぁ、こいつまたやってるわ』
という心の声と共に鳥肌が立つようになっていた。
この先輩との出会いがきっかけとなり、カッコつけるも内包する形で“やってる”ことに対してかなりの嫌悪感を抱くようになった。
自分がボケたりツッコンだりする際にも、
『この話をしたら“やってる”と思われないだろうか?』
と考えるようになっていた。
“やってる”やつというレッテルを貼られることに対して極度に怯えて過ごしてきたのである。
そんな私が衝撃を受ける出来事が数年ほど前にあった。
知人とラーメンを食べに行った際、レンゲを渡そうとしたところ、
「あー、俺大丈夫だから」
と言い、おもむろにどんぶりを持ってラーメンを食べはじめた。
完全に“やって”きたのである。
すがすがしいまでのやり具合に唖然とした。
そこでコペルニクス的転開が起きた。
ふりきって“やって”しまえば逆にすがすがしいのである。
どうせやるならあからさまに“やって”しまえば気にならない。
いや、気にはなるんだけど不快ではない。
そんなことに気付いた私は今私服で虎柄のジャージ(セットアップ)を着ている。
はっきり言って完全に“やってる”。
これからも振り切って“やって”いこうと思う。