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一匹狼の生き様を永谷脩さんから教わった
皆様は、永谷脩さんの事を御存知だろうか?
と言われても、多くの野球人しかわからないはず。また携わった方しか知らないだろう。僕が一匹狼として、瀬間好孝さん以外にも教わった人物として、必ず挙がるのがこの永谷さんである。
永谷脩さん。本来ならキャンプ取材にて宮崎や沖縄にいて取材するはずなのだが、もうこの世には居ないのだ。何故ならば、今から11年前(2014年・平成26年)の6月12日、末期の急性骨髄性白血病にて68年の生涯に幕を閉じられたのだ。
永谷さんは1946年(昭和21年)4月5日に東京都で生まれた。青山学院大学経済学部卒業後、小学館に入社。「週刊少年サンデー」の編集部を経て独立。
野球漫画の第一人者、漫画家の水島新司さん(2022年逝去・享年82歳)のブレーンとしてたくさんの野球漫画等で取材協力。
1977年(昭和52年)に、水島さんと共に月刊「一球入魂」の創刊に関わった。
その後フリーのスポーツライターとして活動され、「週刊ポスト」、「Sports Graphic Number」、「夕刊フジ」等で執筆活動をされていた。
一時期はテレビにも出演。その後はラジオに出演しながらも、スポーツライターとして活動されていた。
有名な出演番組として、TBSラジオ「荒川強啓 デイ・キャッチ!(2019年3月いっぱいで終了)」、「森本毅郎・スタンバイ!」に長年レギュラーゲストとして出演されていた。
僕が永谷さんの事を知るようになったのは、先にあった「Number」での記事。記憶では、永谷さんが親好のあった元阪急の山田久志さんによる記事だったと思う。
1988年(昭和63年)に現役引退し、現役20年で積み重ねた勝ち星は通算284勝(166敗43セーブ)。
当時阪急として最後の試合だった山田さんの密着記事である「120㎞の快速球」。
その著者だったのが永谷さんである。長期に渡る飛び込み取材の魅力に惹かれてしまったのだ。
野村克也さん・王貞治さん・権藤博さん・星野仙一さん・江夏豊さん・村田兆治さん・東尾修さん・山下大輔さん・佐藤義則さんら、数多くの野球選手への取材が多く、 また永谷さんの懐の深い取材能力。僕はその飛び込み取材に憧れていたのだ。
野球だけでなくゴルフ・テニス・相撲・マラソン等にも取材をたくさんされていたのだが、飛び込み取材として諦めない姿勢。
まさに組織に属さない一匹狼としての生き様が、僕のお手本にとてもピッタリだった。
その生き様に永谷さんは自らを「野良犬」と称した。
そんな永谷さんが生涯唯一しこりを残されたのは、今年日米野球殿堂入りを果たされた、イチローさん(現・マリナーズ会長付特別補佐兼インストラクター)との関係だった。
オリックス時代にシーズン200安打を達成された1994年(平成6年)。その前からも公私共に親好があったのだ。
しかし1997年(平成9年)に「文藝春秋」で掲載された「イチロー大リーグへの夢日記」にて、永谷さんはイチローさんから強く批判されたのだ。その事を最後まで雪解けの機会がなかったのだ。
山田久志さんは永谷さんの没後、その事をとても悔やんでいたのだ。
「あの時私が、永谷さんとイチローの間に入っていたら…」と。
しかし人は誰でも誤解される事がある。それもまた人間である。
最初は呑めなかったお酒も、よく嗜めたのだ。病気で倒れてからも病院のベッドにて、執筆は止まらなかった。
その結果、末期である急性骨髄性白血病で帰らぬ人となった。
告別式では、まだ当時現役だったイチローさんや、当時テキサス・レンジャーズに在籍していたダルビッシュ有(現・パドレス)からも献花が贈られていた。
僕は瀬間さんもそうだが、一匹狼としての最初のお手本だったのは永谷さんである。一度もとうとう逢えずじまいとなったが、あと1ヶ月弱で開幕する日米の公式戦。今も天国から見届けているだろう。