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『笑いの哲学』ができるまで(4)イラストレーター進士遥さんに表紙を依頼したときのこと

さて、原稿がほぼ完成すると、今度は表紙をどうしようかということが編集者Hさんとの話題になりました。なんとなくなのですが、講談社選書メチエの表紙に関する印象というのは、どれもクリーム色のカバーで、堅実だが、斬新さはない(すいません、メチエ編集担当のみなさん)、というところがありました。折角の新刊なので、ぜひ、後悔しないものにしたいとHさんに甘えて、以前お仕事を依頼したことのあるイラストレーターの進士遥さんにお願いするアイディアを提案しました。

私の専門は美学、またダンス研究です。ダンス研究の延長で、アーティストたちとフレッシュなダンスのアイディアを創造するBONUSというプロジェクトを2014年から進めています。このBONUSによる2017年のイベントのフライヤーを、進士さんにお願いしたことがありました。進士さんは、細かい筆致で、大人数の人たちの多様な心の動きを一枚の絵の中にまとめ上げることのできる、とても才能のある作家さんです。

進士さんへのメールにこんなテキストを私、書いていました。

その表紙を編集の方と検討しているときに、進士さんのこんな絵に目が止まりました。
https://www.harukashinji.com/illustration-portfolio?pgid=jjgo611v-2e8a6a9b-84c9-11e8-a9ff-063f49e9a7e4
クレーの絵画を前に目の見えない人と健常者とが対話している場面が描かれています。
この感じ、とてもいいなあと思いました。


これが、例えば、クレーの絵のところに漫才師だったり、滑稽な人物(ピエロ?)だったりがいて、その前に色々なタイプの人が囲んでいる、腹を抱えて笑っている人もいれば、そうやって笑う人を軽蔑しているような顔の人がいたり、真剣な顔で考察している人もいれば、その脇で、漫才師なり滑稽な人物なりを真似している人がいたり、、、と多様な人たちが描かれている。そんな絵が進士さんの手によるイラストで描かれ、表紙に使わせてもらえたら、、、どんなに素敵な本になるだろうと思ってしまいました。

つまり、笑いの舞台を中心に据えて、その周りで色々なタイプの人たちが色々と各自の笑いとの接し方をしているという、笑いの受け手のバラエティを描いて欲しいとお願いしたのです。本書は、「はじめに」で示したように、笑いとは良いものか悪いものかの二者択一を極力避けながら、一つの笑いの事象を巡って、実際に色々な意見が生じることを、その「色々」を消さないようにして考察したいと意図しています。

私が笑いについての一個の結論を持っていてそれを読者に押し付けたいのではないのです。むしろある笑いの事象の前であれこれの意見がぶつかっているさまを開いて見せて、その状況を考えていきたい
、そういう思いは、見事に進士さんがまとめてくださったように色々な人があれだこれだと賑やかに口にしているイラストからだけではなく、このイラストを俯瞰するように、タイトル(『笑いの哲学』という文句)が表紙の上部に置かれているレイアウトからも察してもらえたらと、期待していたりします。

このアイディアは共有されたのですが、さて、「クレーの絵」のところに何が入ると良いのか、、、という点で、3人でずいぶん思案しました。進士さんが最初描いてくださったのは、寡黙な巨人の男性が笑いの舞台の上に急遽立たされてしまった、、、みたいなイラストレーションでした。とても悩んでくださった末の「巨人の男性」であることは、容易に想像できました。これが女性であったら、黒人であったら、、、いや、おそらく誰であっても、ポリティカルにインコレクトであると、問題になりそうです。そこで、突如出てきたのが「男性用便器」という案でした。

本書でマルセル・デュシャンの『泉』を取り上げていることは事実ですが、取り上げ方としては、『泉』は決して本書の主役ではありません。でも、その謎めいた「男性用便器」が、この笑いの舞台に立たせるのにその謎ゆえに最もふさわしいのではないか。人間だったら厄介なことになるかもしれないけれど、便器だからね、と言ったところでしょうか(細かく言えば、進士さんの工夫で舞台にいるのは男性用便器ではなく、「男性用便器」を被った誰かなのですが)。このことは、本書が論じているような、「笑えない」問題の状況を示唆する一つの出来事と言えるかもしれません。



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