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『笑いの哲学』ができるまで(10)やり残したこと
あえて、自著の批判を申します。(しかし、それを上回るだけの良さもあると思っています。と、あれこれ申す前にフォローさせていただきます。)
私の新刊『笑いの哲学』(講談社選書メチエ、2020年)最大の限界は、それが「笑いの哲学」だというところにあります。つまり、笑いをあくまでも西洋「哲学」の知見の範囲内で論じたということが、この本の一つのセールスポイントではあるけれども同時に限界であり、弱点だと私は思っています。
「哲学」は西洋の知の財産です。そして、それはもちろん私のような日本人にとっても、重要な財産です。それは間違いないのですが、それが見る人間や笑いの理屈にはある傾向があります。その傾向に沿っている笑いだけがそこで論じられものとなるのだし、その傾向に従ってしか「論」も立ち上がることができないということに限界を感じます。
私は、20年ほどダンスの研究や批評を続けてきました。ダンスは目の前に現れて、すぐに消えてしまいます。打ち上げ花火みたいなものです。それの良し悪しや美学的な(あるダンスが見ている者に与える感覚上の価値)問題に取り組んできたので、笑いもそうした目の前で起きている現象としてもっとその出来事に迫ってみたいし、迫った視点から論じてみたいのです。その際、西洋「哲学」が支える範囲を超えて考察する必要が出てきますが、それでも、もっと「出来事」に迫った研究がしてみたいと思っています。
『笑いの哲学』ならぬ「笑いの批評」を是非してみたいです。
『笑いの哲学』にも、お笑い芸人たちを批評する側面はあったのですが、じっくりしっかりと一つのネタ、1組の芸人たちを批評的に考察してみたいと思います。
あと、「女芸人とお笑い」のようなテーマを設けた考察もしないといけないように思います。笑いは、現代社会を映す鏡であり、現代社会を変容させるツールでもあると考えています。今後、そうしたことをもっと議論展開できたらな、と希望しています。
「『笑いの哲学』ができるまで」というシリーズはひとまず終了します。ここまでお読みくださりありがとうございました。『笑いの哲学』ぜひ、お手にとってご一読ください!!
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