〜車輪が軋むように君が泣く〜 『希望と絶望 その涙を誰も知らない』 短評
今作『希望と絶望』は他の坂道グループ並びにAKBグループのドキュメンタリー映画群と比較して、大したギミックが隠されているわけでもなければ特別な技巧が冴えているわけでもない、どこまでも真正面から馬鹿正直にアイドルが生きている光景を切り取った映像作品である。それが悪手と言い切りたくないが、彼女たちに直撃する問題を表層的に掻い摘んでいくだけの視点は、はっきり言ってファンによる事前の観測範囲と大差無い。ならばわざわざドキュメンタリーを、というより"映画"を撮る必要はないだろう。我々が既に目撃している姿の裏にはどのような光景が広がっているのか、そしてその光景に潜む本質的な問題とはなにか?ドキュメンタリー映画にはこれを提示する義務がある。所詮ファンムービーに過ぎないという事実に甘んじていては本当の映画は撮れないし、本当の事実には誰も気づかないまま最悪な事態へと展開した時にはもう手遅れ。確かに、けやき坂46(以下"けやき坂"表記)→日向坂46(以下"日向坂"表記)という成功の物語には、触れるもの全てを虜にさせる力が宿っているのかもしれない。確かに、我々ファンが心酔しているのは彼女たちの青春賦である。アイドル・エンターテイメントというものは、今日のアイドルが抱える構造的な問題を瑞々しい群青劇で覆い隠すことによって成立している。ドキュメンタリー映画の中においてまるでアイドルが立ちはだかる壁を乗り越えたかのように見せているが、その壁は群青劇を描く上であらかじめ用意されたセットであってほんとうの壁ではない(あるいは本来必要のない壁。炎天下でのライブや猛スケジュールによるメンバーの疲労とか...)。そもそも、ほんとうの壁は打ち砕けないようにできている。アイドル・エンターテイメントにおいてアイドルを疲弊させる諸問題の根源はファンと運営の共謀によって生まれる。すなわちアイドルを応援すること、"推す"ということ自体が抱える功罪である。だから露骨にファンを否定する映画を撮ることはできないし、その結果として映画を通してファンに対する啓発が生まれることは滅多に無い。つまり、アイドルというシステムが抱える問題の本質に踏み込むことができない以上、そこから逃げるように映画を編むことが求められる。観客を欺くためのギミックを凝らすこと。そうやって制作されたのが乃木坂46(以下"乃木坂"表記)のドキュメンタリー映画2作(『悲しみの忘れ方(2015年公開)』と『いつのまにか、ここにいる(2019年公開)』)であり、この2作は少女たちの群青劇を描くのと同時に、前者ならば母親目線のナレーションを用いた"親子の物語"としてアイドルの境遇を切り取っていく筆致によって、後者ならば乃木坂を知らなかった監督が乃木坂に触れて、彼女たちひとりひとりと出会っていく"ロマンス映画"的な筆致によって、ドキュメンタリー映画が提示しなければいけない義務からの"逃げ"を見せる。これによって一応は"映画"として成立する。現実に降りかかる問題を直視できないならば、せめてファンタジー映画に逃げる方が得策であるはずだ。
今作の冒頭と結末、キャプテン・佐々木久美はこの日向坂の2年間が物語として消費されることに対して躊躇いを見せる。メンバーの苦悩や苦痛が都合良く編集され、冒険活劇として綴じられることへの緩やかな抵抗である。であるならば監督は、この映画は、そのステートメントを受け取るか、或いはキッパリと無視する必要があったはずだ。皆が喜んで消費する日向坂という物語にはちゃんと書き手のようなものが存在していること、そしてその書き手の正体を暴くこと。ここにドキュメンタリー映画としての理想的な決着がある。そうでなければ彼女の訴えは解決しない。しかしそれが無理だからこそ、前述したような細工を凝らして"逃げ"る必要がある。この映画の中で佐々木久美が吐露した本心(のようなもの)が観客への意思提示として全く機能していなかった。余程感度の鋭いファンでない限り(もはやそれは純粋な"おひさま"と呼べるのか分からないが)この言葉によって動かされることはないだろう。結局はこの映画が基本的に"物語を描くこと"だけを頼りの綱にして、彼女たちの群青劇を描くことに終始してしまった。メンバーの涙や怪我は情動喚起としてのみ利用される。きっとこれからも彼女たちの努力や葛藤は変わらず"物語"として編まれ続けるであろう。その行為によって生まれる疲弊もまた、物語の中に回収されていく。この事実に気づかず心酔し続けるか、あるいはどこかではっと気づくか。わたしたちはいつだって分かれ道に立たされている。