「どっちつかず」な人間こそが面白い
あなたは、自分のことを文系だと思いますか。理系だと思いますか。
良くも悪くも、日本ではこの2つの区分で人の考え方や能力を推し量ることが多い。大学入試、就活、仕事をしていく上でも、常にこのカテゴライズで能力を見られているような気がする。
でも、理系と文系の境目とはなんだろう。
理系は実証的なデータにもとづいてお話を構築する。
文系は主観的な印象や言葉の持つ説得力でお話を構築する。
一言で言ってしまえば、文系は情緒的で、理系は論理的。
そんなふうに片付けられるようにも思える。
少したちが悪いのは、両者がお互いをなんとなく批判しあっていることだ。理系は文系を「根拠のない主観的印象をまくしたてる人」と批判し、文系は理系を「情緒を理解できないカタブツ」と苦笑いする。
かくいう私自身が、筋金入りの「文系マインド」をこじらせてきたから、こういう対立の根深さは理解できてしまう。
このnoteも、結局は私の主観を並べているだけにすぎない。
それを考えるとき、わたしは「文系人間の劣等感」をおぼえてしまう。
文章表現をいかに駆使したところで、そこに明白な真実を示すことはできないのではないか、と。
だけど、こういう思考の性質やある種の得意不得意は誰にでもあるはずだ。
それを劣等感に変えるか、得意領域として自信につなげるかは人次第だ(わたしは文系に加えて内省的というやっかいな性質を持っている)。
となると、やはり理系文系の2者択一がこうも社会に根づいているのは、人の性質を大まかにカテゴライズしようとしたときに、もっとも納得感をもって区別しやすい2領域だからなのだろう。それが劣等感に傾くにせよ、自信に傾くにせよ。
「あの人は文系だから、営業とか資料作成なんかの表現が必要なものをまかせよう」
「あの人は理系だから、経理とかシステム構築なんかのかっちりしたロジックと計算が必要なものをまかせよう」
こういう判断は、たしかに物事を円滑にすすめていく上でとても有効な手法だ。その人の能力を大まかに見極める天秤のようなもの。
だけどそれは、言ってしまえば社会で生きていく上で便利だから無理やり作ったカテゴリーにすぎない。
人間ひとりひとりは、文系と理系にきっぱり分けられるような単純なものではない。ある面でとても論理的なところもあれば、ある面でとても情緒的な部分もある。その両方が同時にあるのが、人間の面白さであり厄介さだ。
人間の能力の、一筋縄ではいかない「どっちつかずさ」。
その厄介さと面白さを、わたしは信じていたい。
こう思うのは、文系だからだろうか。
(「次世代の教科書」編集長 松田)