「忙しさに翻弄されて小パニック状態」のときにどうするか?
最近、忙しい忙しいとばかり言っている気がする。
それはたいてい、仕事に恵まれていることからくる嬉しい悲鳴なのだけれど、忙しすぎて小さいパニックみたいな状態になっていると危険だ。
「忙」という字が「心」を「亡」と書くのは本当によく出来ている。
忙しさに翻弄されて周りが見えなくなると、やろうとしていたこと、やりたかったはずのことが全部「面倒くさいこと」に変わってしまう。なにかに対する興味関心が失われてしまう。
読むたかった本。
作りたかった料理。
書きたかった文章。
そういったものすべてが遠い彼方に追いやられ、ただ目の前の仕事に場当たり的に対処するための機械になって一日が過ぎていく。
そんなときが、けっこう頻繁にある。
まだ未熟者だから、まだ仕事の経験が浅いから、といった言い訳に逃げることは容易い。
だから目の前のことだけをやっていればいいのだ、と思い込むことは簡単だ。
でも、それをやっていると人はすぐ味をしめる。
「まあ今回は何とか乗り越えられたから、また次もこの感じでいいや」と低きに流れてしまう(なぜこんなことが言えるかって、自分がずぼらな性格で何度もそんなことを繰り返した記憶があるからだ)。
そんなとき、私はこう思うことにしている(ていうか今、そうした)。
「お前はなんのためにこの仕事をしているんだ。このままでいいのか」と。
要は初心を思い出せ、ということで、プロフェッショナルとしては基本中の基本なのかもしれないけど、この「初心に帰る」ということが忙しいとなかなか難しいのだ。
自分のように弱い人間は、意識しなければすぐ「初めた頃の情熱」を忘れてしまう。忙しさというのは、それにもっともらしい理由をつける良い口実になる。
「忙しかったんだから、そういうことまで思い至らないのは仕方ないよね」と。
でも、結局のところ仕事を通して成長していくには自分の中で一本軸が必要だと思う。この仕事を通して何を成し遂げたいのか、という意志が必要だと思う。
それは人それぞれで良い。
自分の場合は、本の編集を続けていくための意志とは、「誰かを感動させるような本をつくりたい」だ。とてもシンプルだ。
それは、自分自身が本に泣き、本に喜んだ経験があるからだ。
その経験を、その価値を少しでも多くの人に届けたい。
忙しいときほど、この気持ちを思い出すのだ。
そして、どうしようもない忙しさからはさっさと抜け出すのだ。
「この仕事をやり終えたら、読みたかったあの本を読もう。」
忙しさに翻弄されるだけの気持ちを、そんな余裕に変えて。
そうすれば、心の奥にある種火は、もう一度身体中を温める炎に変わっていくに違いない。
(「次世代の教科書」編集長_松田)