木元哉多ゼミ〜推理作家の思考 第34回 映画講座 『パラサイト 半地下の家族』⑤
ちなみにですが、この金持ち家族は基本的にいい人たちです。
物価が上がったからといって、進んでインフレ分を給料に上乗せしてくれたりする。単に育ちがいいだけかもしれませんが。
ただ、貧乏人の生活をまったく知らないし、考えたこともない。自分たちのサークルの外にいる人たちの苦しみに対して、極端に鈍感です。だからちょっとした発言に、差別的な表現がひょいと出てきたりする。
ここらへんは日本の政治家の問題発言と似ています。無知と想像力の欠如です。
この映画はよくできていると思う。
対比の構図。物語の起点から「転」を経て、結末までを結ぶストーリーテリング。主人公ギテクが殺害にいたるまでの心理プロセスの描き方。その伏線の配置。
物語の基本を忠実に守りつつ、しかもそのすべてがうまくいっている。
特にギテク役のソン・ガンホの演技がいい。
ギテクは、金持ちたちのサークルの内側に入って、「知らないほうがよかった」ことを知ってしまう。それによって今まで蓋をしてきた憎悪に気づいてしまう。
最後、パニック状態のなかで、息子は頭を割られ、娘は刺されている状況のなかで、いっさいの思考が停止する。
ほとんど本能だけの存在になったとき、金持ちに対する殺意のまま、刃物を拾ってドンイクに突き立てる。
こういうタイプの物語を「社会の縮図」と僕は呼んでいます。
韓国における格差社会を物語の背景として、あるいはモチーフとして置きつつ、うまくサスペンスドラマに仕立てています。
つまりエンタメと風刺をうまく両立している。
この映画には三つの家族が出てきます。
金持ち家族、半地下の貧乏家族、そして地下の家族です。
豪邸の地下に住んでいる夫(グンセ)は、ホームレスに近い。ゴミ箱をあさるように、金持ちの家から食べ物と電気を盗んでいます。
三つの家族の話なのだけど、同時にそれがそのまま韓国社会の縮図になっています。
韓国社会には、一番上に富裕層があり、中間に半地下の貧困層があり、さらにその下にほとんど精神を病んでいる地下の人がいる。
フィクションなのだけど、架空の宇宙人やゾンビの話ではなく、現実の韓国社会、すなわち三層の格差社会を、三つの家族になぞらえてメタフォリカルに描いています。
擬似的なドキュメンタリーといっていい。
地下室で、グンセがギテクにこう言うシーンがあります。
「地下に住んでる人間なんか、ざらにいるよ。半地下もふくめたら、かなりな」
さらにグンセは言う。「俺はもう、ここにいるのが楽なんだ」と。
「地下」にいて、もう地上に出ることはあきらめたグンセ。今は「半地下」にいるけど、まだ地上に出ることをあきらめていない息子のギウ。この二つが対比されています。
そしてギテクは今のところ、その中間のグレーゾーンにいる。
この会話が地下でなされるのが象徴的です。のちにギテクが「地下へ下りていく」ことへの伏線にもなっています。
「社会の縮図」ものでいうと、チェーホフの『三人姉妹』も同型です。
これは三人の姉妹と、その屋敷を訪れる人々の話なのですが、その構図がそのまま当時のロシア社会の縮図になっています。
映画でいうと、エミール・クストリッツァ監督の『アンダーグラウンド』。
戦時下のユーゴスラビアが舞台で、地下に武器工場があります。地上と地下は完全に隔絶していて、地上の人は地下にそんな工場があることを知らないし、地下の人は地上ではとっくに戦争が終わっていることを知らず、せっせと武器を作り続けている。
『パラサイト 半地下の家族』と構図がちょっと似ています。
この映画を観ていると、やはり日本とは比べものにならないくらい、韓国の格差社会の闇の深さを感じます。
韓国社会には三層ある。
一番上の富裕層は、日の当たる「地上」にいて富を独占している。そして同じ韓国人なのに、貧しい人たちのことをいっさい知らないし、関心もない。
中間が「半地下」。富裕層(ないし財閥)の下請け的な仕事をして、やっと生活できる。ただし賃金はひときわ安いし、時には売春婦であることを強要される。
さらにその下に「地下」がある。精神を病んでいて、人間らしい暮らしを放棄しています。でもそこにいるほうが楽という人です。
一方でこの映画は、未来を予言してもいます。
いずれ下層から、富裕層への憎悪を持った者が上がってきて、金持ちを殺すだろうと。
金持ちは、下層の貧乏人から復讐されることを恐れています。だから地上と地下を分けて、おたがいに接触しないようにしています。
情報操作をして、不都合な真実を知られないようにメディアをコントロールしてもいます。ちなみに金持ち・父のドンイクは、雑誌などで英雄として持ちあげられているようです。
しかしギテクは、金持ちサークルの内側に入ってしまう。そこで知るべきでないことを知ってしまう。
貧乏人が災害にあって苦しんでいるとき、金持ちは優雅にパーティーをしていること。貧乏人が食べているものより、金持ちの犬が食べているジャーキーのほうが上等なこと。金持ちにとって自分たちは売春婦みたいなものであること。彼らの稼ぎに比べて、自分たちに支払われている賃金は微々たるものであること。そして、鼻が慣れているから気づかなかったが、自分たちが住んでいる半地下の部屋はくさいこと。
すべてを知ってしまったギテクは、金持ちを殺してしまう。
いくら金持ちが防犯設備を整えようが、彼らは身分証を偽造するなどして、すり抜けてくるだろう。いくら情報操作をして不都合な真実を隠蔽したとしても、半地下の人々もインターネットは使いこなすから、完全に隠しきることは不可能である。いくら物価に合わせてちょっと給料を上げたって、そんなことではだまされない。
いずれ下層から上がってきた貧乏人が、金持ちを殺すだろうと、この映画は予言しています。そこに韓国社会のリアルが詰まっている。
韓国の政治情勢にそれほど詳しくはないのですが、たとえばパク・クネのように、大衆の味方だと思っていた大統領が、実は富裕層側の人間だったことが分かったとき、つまり知るべきでないことを知ってしまったとき、韓国の大衆がヒステリックになって引きずり下ろそうとするのを見たりすると、この映画の予言もまんざらではないという気がしてしまいます。
ラストシーンで、ギテクがドンイクを殺すシーンを、韓国の富裕層がどう見るのだろうと不思議に思います。
この映画は、アメリカでアカデミー賞を取っているのですが、韓国の快挙だと喜ぶ気にはならないのではないか。
ある意味で、韓国の富裕層に喧嘩を売っているような映画です。映画人としての、その喧嘩の売り方がいい。
誰に対しても遠慮なくものを言いたいなら、反論の余地を与えないくらいのクオリティーをそなえていなければいけない。これも風刺を成立させるための条件の一つだと思う。
では、また次回。