木元哉多ゼミ〜推理作家の思考 第9回 文章講座 秋元康④
秋元康の歌詞には、電車をモチーフにしたものが少なくありません。乃木坂46の『制服のマネキン』という曲にも電車が出てきます。
君が何かを言いかけて 電車が過ぎる高架線
動く唇 読んでみたけど YESか NOか?
河川敷の野球場で ボールを打った金属音
黙り込んだ 僕らの所(とこ)へ 飛んでくればいい
若い男女が河川敷にいます。
たぶん付き合っているのだろうけど、関係は気まずくなっています。
このあとに続く歌詞で「若過ぎる それだけで 大人に邪魔をさせない」とあるので、大人と呼べる年齢ではないのでしょう。何かの事情で、二人の恋愛は大人たちに邪魔をされています。
二人の目は野球場のほうを向いていて、向き合っていない。言葉も出てこない。ずっと沈黙が続いている。
やっと君が何かを言いかけるのだけど、そのとき電車が通り過ぎる。声がかき消されて、君が何を言ったのか聞き取れない。
このタイミングの悪さが、二人のちぐはぐな関係性を表しています。
聞き取れなかったのなら、「え、なんて言ったの?」と聞き返せばいい。でも、それも言いづらい空気になっている。
君がなんて言ったのか、唇の動きを読んでみるけど、YESと言ったのか、NOと言ったのか(ポジティブなことを言ったのか、ネガティブなことを言ったのか)も分からない。
二人の関係性が、冒頭の二行だけでぴたっと表されています。
すべてがうまくいっていません。
大人にも邪魔されるし、電車にも妨害される。話し合わなければならないことがたくさんあるはずなのに、言葉が出てこない。顔色を見ても分からない。意思疎通がまったくできない。
ここが秋元康の真骨頂なのですが、二人の距離感がそのまま表れるような状況をうまく作っています。
二人はずっと無言でいます。そこに金属バットがボールを打った「カキン」という音が聞こえてくる。そのボールがこっちに飛んできて、二人の気まずい空気を壊してくれればいいのに、と主人公は思う。
主人公はここで、沈黙を破る何かが起きてほしいと期待します。
だけど、まだ若いせいで、自分でそれを起こす力はない。ただ二人で河川敷に立って、向き合わず、声も発せず、黙り込んでいるしかない。
ボールが飛んでくるのを期待しているしかない。それがじれったい。
でも、現状を打破する力が欲しいとは思っています。だからここで「金属バット」が出てくる。
金属バットくらい強い力、強い意志が自分にあって、この重たい沈黙を、ちぐはぐとした二人の関係性を、停滞している現状を、大人たちが邪魔してくるのを、ぶち壊してやるくらいの力が欲しい。
主人公の破壊衝動、いわば殻を破ろうとするエネルギーが、この「金属音(金属バット)」という言葉にメタファーとして込められています。
ここがとても重要です。
ここに「金属バット」を持ってこられるところが、作詞家の才能です(この歌詞を初めて聴いたとき、村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』を連想しました。この小説にも金属バットが出てきます)。
ここは絶対に「金属バット」でなければいけない。
たとえば「凧揚げ」ではダメです。
分かりやすく説明するために、ちょっと書いてみましょう。その河川敷には、二人の他に、凧揚げしている親子がいたとします。
君が何かを言いかけて 電車が過ぎる高架線
動く唇 読んでみたけど YESか NOか?
空に大きな凧が揚がり 子供が歓声をあげる
風にあおられ バランス崩し 地上に落ちた
適当に書いてみましたけど、これだとさっぱり意味が分からないわけです。
でも実際問題として、何が言いたいのかよく分からない歌詞は、プロのミュージシャンが書くものでも散見されます。
ここは絶対に「凧揚げ」ではダメで、「金属バット」でなければいけない。でないと、主人公の感情が伝わらない。
この主人公は、二人の気まずい関係を、邪魔してくる大人たちを、勇気のない自分を、金属バットくらいの破壊力でぶちのめしてやりたい、という強い衝動を潜在的には持っています。それが大人になる、ということでもあります。
その感情が「金属音(金属バット)」という言葉に託されてメタファーとして表現されています。つまり心理描写になっているということです。
「凧揚げ」のほうは、ただ「凧が揚がって落ちた」という状況説明に過ぎず、主人公の心理とリンクしていない。
秋元康はさらっと書いているのですが、たった四行の歌詞にこれだけのことを詰め込めるというのは、尋常なセンスじゃない。信じられないくらいうまいし、そこに計算も働いています。
あるいは、この歌詞はこのころの乃木坂46を指しているのかもしれません。
この主人公のように、何も言わず、ただ沈黙しているだけで、自分からは行動を起こさない。人の顔色を見て、YESか、NOか、探っているだけ。ただ、ボールが来るのを待っている。
誰かがなんとかしてくれるのを待っている。がむしゃらに、金属バットをぶんぶん振り回すように、なにがなんでも現状突破しようという気概を持った人間がいない。
そういうメンバーがほとんどだったのかもしれません(憶測だけで言っています。間違っていたら、ごめんなさい)。
秋元康が、日ごろメンバーを見て感じることが、歌詞に転換されて出てきているのかなと思ったりします。
僕にもそういうことはよくあります。近ごろよく思うこと、日常のフラストレーション、自分に対するいらだち、そういったものが、僕の場合は「物語」に転換されて出てくる。
いい歌詞や物語は、イマジネーションやインスピレーションからではなく、日常をしっかり生きること、いろんなことに関心をもってよく観察することから生まれてくる。
本心からそう思います。
秋元康の歌詞は、①言葉のチョイスと組み合わせによって映像を喚起する、②メタファーの使い方。この二点において際立って優れています。
簡単に真似できるものではないですが、僕なりに盗んで、小説の文体に取り入れています。具体的にどう取り入れているかは、またどこかで話しましょう。
他にも取りあげるべき歌詞はたくさんあるのですが、今回はこの辺で。
では、また次回。