木元哉多ゼミ〜推理作家の思考 第41回 映画講座 『万引き家族』③
是枝映画の特徴は、まず脚本がきれいなことです。
起点から変点、そして結末へ。という流れは、映画のもっともオーソドックスな造りなので、かえって平板になりがちです。
なので物語のなかで謎を設定して、その答えとなるヒントを伏線として細かく配置していく。これだけでも起伏ができて、映画はだいぶ観やすくなります。
最後に謎が明かされて、幕を閉じる。無理のないかたちでミステリーのエッセンスを取り入れていて、工夫を感じます。
セリフが少ないのも特徴です。
特に凝ったセリフは出てこない。そのかわり、登場人物の感情の推移が見えやすくなるようなシーンを作る。
たとえばスタート地点がAで、ゴールがEだとすると、途中でB、C、Dを通過しなければならない。主人公が通過するBという感情、Cという感情、Dという感情を、言葉で説明するのではなく、シーンに落とし込んでいく。
いきなりAからEに飛んではいけない。それだと観客がその感情を汲み取って、登場人物に感情移入するまでのプロセスがなくなってしまう。
『万引き家族』でいえば、祥太が感じるジレンマがそれです。
祥太は、父もふくめてこの家族のことが大好きです。でも、いろんなことに疑問を感じるようにもなっている。
決定的に大事なのは、駄菓子屋の店主のセリフです。「妹には、させんなよ」と言われる。どういう意味なのか、特に説明はない。祥太もそれに対して、なにかセリフを返すわけではない。ただ、彼がどのような感情を通過したのかは、しっかりとシーンに落とし込まれています。
心理描写が細やかです。是枝裕和が、役者をとても信用しているんだな、というのがすごく伝わってきます。
この映画で気になるのは、むしろ亜紀(松岡茉優)のほうです。
彼女は裕福な家庭で生まれて、学校もちゃんと出ています。しかし、ここはまったく説明がないのですが、親と折り合いが悪くなったらしく、家出しているようです。
そのとき初枝(樹木希林)に一緒に暮らさないかと言われ、同じ屋根の下で住むようになったという設定です。
血のつながりのある家族に捨てられて、こっちの擬似的な(血のつながりのない)家族のところに来たという点では、誘拐されてきた女の子とそんなに変わりません。
この亜紀が、やたら初枝に甘えるシーンがあります。それがすごく子供っぽい。赤ちゃんごっこをしている感じです。幼児期に親に甘えられなかったぶんを、初枝を相手に満たしているように見えます。
彼女は風俗店で働いています。風俗は、ある意味、擬似的な恋愛ごっことも言えます。
つまり彼女は、擬似的な家族、擬似的な恋愛、そういったものしか信じられなくなっているのかもしれない。
警察に逮捕されて、擬似的な家族が解散になったあと、彼女は一人で家に戻ってきます。家はそのまま残されているので、まだみんながいるような気配がある。
だけど戸を開けたら、そこには誰もいない。抜け殻となった家があるだけです。
擬似的な家族は、いわば偽物の家族だから、化けの皮がはがれたら、もうそこには何もない。それが彼女のラストシーンになっています。
亜紀がこのあとどう生きていくのかは、ちょっと想像できない。本当の家族のもとには戻らない気がするけど、これからも擬似的な家族、擬似的な恋愛を求めて、その相手をしてくれる人を求めていくのかもしれません。
でも結局、擬似的なものにすぎないので、そのたびに失うことになる。
あまりいい暗示では終わっていません。
『半地下の家族』と『万引き家族』。
日韓の、それぞれ貧困をテーマにした映画ですが、共通しているのは、家族がセーフティーネットになっている点です。
彼らは貧しく、社会的にも疎外されています。犯罪をしなければ生活できないレベルですが、少なくとも家族で助けあっています。
ただ、『万引き家族』の場合、血のつながりはなく、いわば家族の真似事をしているだけです。本当の家族は、亜紀の家族にしても、りんの家族にしても、とても冷たい。
家族というものが形骸化しつつあることを示しています。
はっきり異なるのは、置かれている力点です。
『半地下の家族』の最大の力点は、貧困層が持つ富裕層への憎悪です。
貧しさが、富める者への憎悪にダイレクトにつながっています。それだけ韓国の格差社会がきついということでしょう。
『万引き家族』の場合、富裕層への憎悪という視点はまったく出てこない。むしろ強調されているのは、大人の情けなさです。
この映画に出てくる大人は、誰一人として問題解決能力がありません。
一人一人は善良です。でも、現状を変える力をまったく持っていない。
特に父の治はひどくて、完全に逃げ癖がついています。言い訳ばかりするし、頭は悪いし、最後は子供を捨てて逃げようとする。走り方も妙に情けない(これはもちろん、リリー・フランキーが演技としてやっているわけですが)。
最後のほうで出てくる警察も情けない。偉そうなことを口では言うのですが、結局、事なかれ主義で、りんを虐待する親のところに返してしまいます。それが規則だからでしょう。
虐待の事実をつかんでいながら、規則に従って親のもとに返してしまい、結果、子供が殺されるということを何度もくりかえしている児童相談所と同じです。
犠牲になるのは、いつも子供たちです。
祥太やりんもそうですが、亜紀もまだ子供と言っていい。亜紀の両親は、娘がどこかに行っちゃっているのに、世間体を取りつくろうことしかしていません。
大人が情けなくて、愚かで、現実を変える力を持っていない。
だからか、現実を変えてほしいという願いは、子供たちに託される。
この映画が、二人の子供のシーンで終わるのが象徴的です。
祥太は児童養護施設に入ります。学校に行って学び、これからは自分の意志で生きていく。たぶん、もう家族とは会わないつもりです。
彼は頭はいい。ずっと学校に行っていなかったのに、国語の成績は八位です。そう言って祥太が自慢するシーンがあります。
本をよく読んでいたから、国語力はあるのでしょう。しかし逆にいうと、算数や社会や理科の成績はめちゃくちゃ悪いんだと思う。このハンデは小さくない。
りんのほうはもっと過酷です。自分を虐待する親のところに引き戻されます。警察も児童相談所も、誰も彼女の味方をしてくれません。一緒に遊んでくれる人も、もういない。最後は一人で遊んでいるシーンで終わります。
ただ、一連の出来事を通して少しタフになっていて、最後は母に向かって首を横に振り、ぐっと見すえて、抵抗の意志を示します。
富裕層への憎悪に力点が置かれる韓国と、大人の情けなさに力点が置かれる日本。
ここはそれぞれの国の現実に即しているように思えます。
では、また次回。