木元哉多ゼミ〜推理作家の思考 第28回 社会講座 エンタメと風刺③
エンタメと社会風刺がうまく両立できている作品として、秋元康作詞、櫻坂46の『BAN』を取りあげます。
僕は文章を書くうえで、秋元康をとても参考にしているのですが、彼の作品のなかでもこの『BAN』は特に不思議な感じがします。
明け方までスマホで動画観てた それじゃ起きられるわけがない
全てのことに遅刻して 今日もサボってしまった
カップ麺 お湯を注いで 「それなら寝てりゃよかった」
なんて あくびしてたら麺が伸びた
何になりたい 何をやりたい
いつからだろう 夢を見てない
ずっと ゲームしてるうちに いつしか大人になってた
みんな どこへ行ったんだ? なんでそんな忙しいの?
ちょっと待ってよ 「時間はあんなにあったじゃないか」
人生の電源切られるように 僕だけ退場ってこと?
主人公は、ゲーム依存症の男の子です。
いや、もう成人なのかもしれません。でも精神年齢はかなり低いように見えます。
実際、ゲーム依存症は恐ろしい病気です。もっとはっきり警鐘を鳴らしたほうがいいと思っています。でないと、本当にその子の一生をダメにしてしまう。
ちなみに中国では、十八歳以下の未成年者にかぎり、金、土、日曜と祝日は午後八時から九時までの一時間しかオンラインゲームができないように制限されています。
そういうルールの決め方がいいか悪いかは別にして、それくらい若者のゲーム依存症が深刻な社会問題になっています。
日本だと、ゲーム会社に遠慮してか、あまり報道されないのですが、問題の深さは日本もそんなに変わらないと思う。
ゲーム依存症は、ゲームをしているときは極度に集中して、逆にそのあとは極度の倦怠と無気力がやってくるのが特徴です。
なぜゲームをしているときに極度に集中するのかというと、ずっと快感が続くからです。
そのとき脳が感じる快感は、たとえばサッカーファンが、試合を観ていてゴールが入った瞬間に感じる快感と同じです。野球を観ていてホームランが出たときも同じ。スポーツが好きな人はその快感を求めて観るわけです。
ただしサッカーや野球は、その快感にいたるまでにプロセスがあります。
サッカーでゴールを決めるためには、敵の守備陣形を突破しなければならない。バッターがホームランを打つには、ピッチャーが投げる難しい球を完璧に打たなければならない。
いきなり快感があるのではなく、まず困難があり、それを破ったあとに快感が来る。一試合のなかで、その快感が何度もあるわけではない。
小説にもその快感はあります。カタルシスと呼ばれるものです。
基本的には物語の最後に来るもので、そこにいたるまでにプロセスがあるのは同じです。感情移入した主人公が困難を乗り越えて、最後に努力が報われる。あるいは悪い敵を倒して、正義を実現する。そこに快感をおぼえる。
原理はスポーツも小説も同じです。
しかしゲームから得られる快感には、このプロセスがありません。あっても極端に短いか、ほとんど一瞬でしかない。
とりわけ危険なのは、シューティングゲーム系です。
たとえば主人公は戦場にいて、マシンガンを持っている。スタート地点からゴールまでに百人の敵がいて、一人ずつ撃ち殺していく。
敵が現れる→撃ち殺す→快感、敵が現れる→撃ち殺す→快感。
これが百回続くことになる。
安い快感の乱発です。
このとき脳はずっと快感で、興奮状態にあります。基本的に思考はしていない。何も考えていなくて、ただひたすら反射でボタンを押している状態になっています。
それで連続して快感が得られる。ずっと快感にひたっていられる。
この状態は麻薬と似ています。
薬物を投与したら、そのまま快感が来る。快感を得るまでのプロセスがない。
今はおもしろいゲームが流行るのではなく、依存性の高いゲームが流行る傾向にあります。依存性の高いゲームというのは、考える暇もないくらい、連続して反射的に、あるいは麻薬的に快感を得られるゲームです。
人間は通常、ずっと考えるということはできません。
考える、止まる、思考を整理する、考える、止まる、思考を整理する、という順序をくりかえします。
ずっと考えていると煮つまってきて、ちょっと手を止めて、気晴らしに散歩したり、コーヒーを飲んだりするのはそのためです。そこで散歩したりコーヒーを飲みながら、思考を整理しているわけです。
しかしゲームは長時間、ずっとやっていられます。それは集中力があるからではなく、むしろまったく思考していないからです。
ただ、体は疲れます。特に目は疲れる。
でも脳は興奮状態にあるから、ゲームをやっているときは疲れを感じません。疲れに対して麻痺しています。
ゲームをやめたとき、やっと体の疲れに気づきます。なんか、ぐったりする。だから次には倦怠と無気力が来る。
そこから何かをやる気にはなりません。勉強もできないし、掃除もできない。あらゆる社会活動ができなくなる。
ずっとボーッとしているだけです。それはそれで、しんどい。その倦怠と無気力がつらいから、またゲームをやる。ゲームをやっているときは脳が興奮していて、疲れを感じない。でもそれをやめると・・・。
これをくりかえすと、人間の脳はどうなるか。何も考えず、ただゲームから得られる反射的な快感を求めるだけの脳になってしまう。
『BAN』の主人公は、明け方までスマホを観ていたので、寝坊してしまい、学校かバイトかは分かりませんが、サボってしまう。遅刻したけど、今からでも行こうという気さえない。
たぶん夜三時くらいまでゲームをしていたのでしょう。
そこでゲームをやめて布団に入った。でもゲームをしているときは、脳は興奮状態にあります。さっきまで興奮していたのに、布団に入っても急に眠れるわけがない。
つまりゲーム依存症には、たいてい不眠症もついてきます。
眠れないので、ベッドのなかでスマホを観ていたら明け方になっていた。だから朝、起きられなくて、サボってしまう。
それでカップ麺にお湯を入れる。ボーッとしていたら、麺が伸びていた。これは時間の感覚がすっかりダメになっていることを意味します。もはや社会生活ができないレベルです。
ここらへんの描写が、やたらリアルだったりします。
彼はゲーム依存症の、厳密にいえば一歩手前くらいの状態にあります。
ちょっと怖いくらいの歌詞で、強い風刺性をふくんでいます。
ゲーム依存症という社会問題の実相を、報道とは別の手法で(異なる切り口で)描写しているわけです。空想でも妄想でもなく、現実にある問題と対峙しているので、その描写はリアリズムに徹していなければならない。
これはいわば風刺の必須条件です。恋愛の歌詞は誰でも書けます。うまい下手は別にして、自分の気持ちを書けばいいだけだから。でも、この描写力がなければ、風刺は扱えない。
では、また次回。