木元哉多ゼミ〜推理作家の思考 第27回 社会講座 エンタメと風刺②

    商品と芸術。
    おおまかにそう分類しましたが、実際にはテレビ局のプロデューサーだって、視聴率をまったく気にしない人はいないし、逆に視聴率だけですべてを判断する人も少ない。その時々でバランスを取っています。
    あまり商品に寄りすぎれば、すべてが均質化して業界全体が衰退していく。時としてマーケティングを度外視したチャレンジはするけど、ゴミになりはてるリスクもある。
    マーケティングを基にしたからといって、狙い通りの結果が出るとはかぎりません。確率的に外れにくいだけです。
    ただ、すべてのクリエーターは、多かれ少なかれ、自分がやりたいことと商業主義のはざまで葛藤しています。
    クリエーターは、最初は自分がやりたいことをやっているだけです。自分がおもしろいと思うことをひたすら追求する。その結果、才能があればですが、技術と想像力が伸びていく。
    でもプロになったら、それだけでは足りない。ちゃんと採算が取れないといけない。じゃないと会社からGOサインが出ない。
    自分がやりたいことをやって、それで儲かるとしたら、よっぽど運がいい場合だけです。でもそんな幸せな期間は、たぶん長くは続かない。
    じゃあ、どうするか。
    方向は三つあります。
    ①自分がやりたいことを趣味としてやる。学生の自主製作映画みたいに。趣味としてやるぶんには誰の迷惑にもならない。
    ②商品に徹する。
    ③芸術性を追求しつつ、商品としても両立できるようにする。

    僕は今の時代に生まれて、今の時代に作家をやっている人間として、この世界に対して訴えるべきものを持っています。
    つまり作家としての内発的な動機はある。
    僕は基本的に政治的な人間で、社会問題にも関心が強い。今の政治や社会のあり方について批判的です。
    だが、作家としてそれを前面に出すのは危険です。小説は、政治思想を伝播させるためにあるものではないからです。
    僕が社会問題に関心を持ち、それについていろいろ考えることがあって、その考えたことが僕のなかで血肉化されて、結果的に小説のなかに立ち現れてくることはある。でも、あくまでも結果的にであって、それ自体を目的として書くわけではありません。
    欧米だと、芸能人が支持政党を表明したり、選挙協力することも珍しくないのですが、日本だとなかなかありません。
    たとえば「脱原発」みたいなことを言えば、反対派(原発推進によって利益を得る人たち)からバッシングされるからです。
    政治的立場と芸能人としての価値を分けてもくれない。「彼の政治思想は気に入らないけど、役者としてはすばらしい」というように、それとこれとを分けて考えてくれない。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いになって、「気に入らねえ、役者としてもクソだ」になってしまう。
    役者が薬物などで逮捕された場合も同じです。
    その役者が逮捕されたことと、その役者が出演している映画の価値とを分けて考えてくれない。すべてが一緒くたになり、まとめて発禁扱いになってしまう。
    日本における表現の自由はそこまで成熟していません。未熟だから、合理的でもなく、分別もない批判がまかり通ってしまう。成熟した大人ならやらないタイプの、バッシングという名のいじめが、世の中には山ほどあります。

    政治とは、すなわち利害を異にする者同士の戦いです。
    基本的に、汚い手段を平然と使ったほうが勝ちます。そして勝った者が正義を名乗り、堂々と利益をぶんどる。さらにその利益(既得権益)を固めるために、得た金の一部を使って、反対派を根こそぎ刈ろうとする。
    政治的立場を表明するということは、そういう連中に戦いを挑むということです。
    政治色を出すこと自体、敵を生むのです。
    それは商業主義に逆らう行為です。
    商業主義にとっては、敵を作りたくない。すべての人がお客様だからです。だから政治色を出さないことが「大人」ということになります。それを政治的中立性と呼んだりするのですが、単に逃げているだけともいえます。
    もし芸能人で「私は◯◯に反対します」と声をあげて政治的意見を言う人がいたとしたら、その人は勇者です。テレビの世界から干されることを覚悟していなければ、そんなこと言えません。ほとんど引退宣言に近い。
    もちろん勇者とバカは紙一重です。芸術とゴミが紙一重であるように。
    今の時代、政治的立場なんて持たないほうがいい。
    そもそも、そういう社会風刺性みたいなものを出すと、説教くさいとか、社会に警鐘を鳴らすみたいな態度が上から物を言っているみたいで偉そうだ、などと言われて敬遠されがちです。まわりからは、そんなガキみたいな正義感は捨てて、商品に徹しろと言われてしまう。
    僕の場合、社会風刺自体を目的として小説を書くわけではないのですが、根っこが政治的な人間なので、出さないほうがいいと分かっていても、テーマ選びとか、モチーフ選定のレベルで、無意識に出てしまいます。
    いわば体臭みたいなもので、隠しようがない。それが時として敵を作り、商業主義とバッティングしてしまう。

    クリエーター受難の時代です。
    やりたいことが、すっとやれない。いろんな妨害が入る。
    単純な話ですが、芸人が「顔にクリームパイを投げつける」というだけのことでもやりにくくなっています。「食べ物がもったいない」とか「真似する子供が出て、いじめを助長する」といった批判が実際に少なくないからです。
    テレビ局からすると、そういう批判がスポンサーに向くかもしれないと考えたら、二の足を踏みます。それだけのことでも、めちゃくちゃやりにくくなる。
    ましてや芸能人が政治的発言をするなんて、タブーでしかない。
    そしてクリエーターとはいえ、商業主義には勝てません。商売として成り立たないと食べていけないからです。じゃなければ、趣味でやるしかなくなる。
    僕が書くものは推理小説で、基本的にエンタメです。謎が設定され、それが推理によって解かれる楽しさが軸になります。
    一方で、社会風刺みたいなものも物語のテーマとして頻繁に出てくる。政治問題が直接的に出てくることはありませんが、ベースに貧困、虐待、差別など、社会全体を覆う空気感といったレベルでは強く出てきます。
    この二つをどうやって両立させるかが、つねに課題になります。
    そこで次回から、僕が近年観たもののなかで、エンタメと風刺をうまく両立できていると思える作品をいくつか取りあげようと思います。

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