木元哉多ゼミ〜推理作家の思考 第4回 小説講座 キャラクター②
ここに閻魔大王の娘がいる。
閻魔大王の娘として生まれ、閻魔大王の娘として育てられてきた女性である。
それを受け入れて生きるのか、拒否して生きるのか。その相克のなかに、彼女のキャラクターはおのずと立ち現れてくる。
作家はそれを正確に汲み取って、彼女の発する言葉や一挙手一投足にぴたっと反映させなければならない。
人には宿命というものがあります。
金持ちの家に生まれるか、貧乏な家に生まれるかは選べません。ですが、それを受け入れるか、拒否するかは選べます。
たとえば父親が大きな会社の社長だとしても、成人したときに親の会社に入って、約束されたポストに就くのか、それとも親から離れて、ゼロから人生をスタートさせるのかは選べます。
親が貧乏で、大学に行けなかったとしても、学歴が低いから何をやっても無駄だとあきらめるのか、大学に行けなかったぶん、独学で大学生より勉強して、いずれ見返してやると奮起するのかは選べます。
本人が主体的に選んで行動を起こすことによって、人生はまったく別の色になり、ちがったストーリーが生まれる。
もしあなたがタンポポの種なら、どう頑張っても薔薇の花は咲かないでしょう。でも大地にしっかり根を張ったたくましいタンポポになるか、芯の曲がったへなへなのタンポポになるかは選べます。
彼女が閻魔大王の娘に生まれたのは、選べないことです。でもその宿命を受け入れるのか、拒否するのかは選べます。
まだ十代後半。容姿は美しく、頭はずば抜けていい。
でも閻魔というくらいだから、悪魔の血も流れている。その気になれば、大地を凍りつかせるほど冷酷になれる。
同時に正義の番人でもある。善人には天国行きを、悪人には地獄行きを命じる、生殺与奪の権を持った存在である。望めばなんだって手に入れられるだろうけど、人生で何がしたいかはまだ決まっていない。
自由奔放な女性だから、押しつけられるのはいやだろう。でも父の代理を引き受けているわけだから、頭ごなしに拒否しているわけでもない。
彼女はなぜ父の代理を引き受けて、閻魔の仕事をするのか。
その動機は、謎のままでいい。むしろこれを謎として据えることで、彼女はより魅力的な存在になる。
彼女の性格からすれば、そんなことやらなそうなのに、やっている。そこに謎がある。その謎の裏返しに、なぜ死者に推理ゲームをさせて生き返らせるのか、その動機も隠されているだろう。
謎のない人間は、物語の主人公にはなれません。
「開成を出て、東大に入り、財務省の官僚になりました」
これだと謎がないので、魅力的なキャラクターになりません。「ふうん、頭いいんだね」くらいで終わってしまう。
「安定した給料が欲しいから、公務員になりました」
これも同様です。もちろん人生の価値観はさまざまですが、これだと動機が浅すぎて、誰もこの人の人生に興味を持ちません。
物語の主人公になるのは、その逆です。
たとえば大学病院で「ゴッドハンド」と呼ばれていたエリート外科医が、その約束された地位を捨てて、突然、無医村で診療所をはじめる。「なんで?」と聞きたくなる謎があるから、興味を持たれる。その理由が、手術で失敗して患者を殺してしまい、トラウマになってメスを持てなくなった、とかだと月並みですが。
年収三億円だった株のトレーダーが、突然仕事をやめて、田舎で喫茶店をはじめた。でも、実は裏稼業で殺し屋をやっている、とかでもかまいません。そんな小説、読みたいと思うかどうかはまた別ですが。
ともかく「なんで?」と聞きたくなる謎があるから、物語の主人公になれる。
レイモンド・チャンドラーの探偵小説の主人公、フィリップ・マーロウがなぜ私立探偵をやっているのか(儲からないのに、いつもひどい目にあうのに)も、謎として設定されています。
もちろん「なんで?」と聞いても、マーロウは答えません。ですが、彼の生き方、セリフ、行動原理に、その謎の答えは暗示されています。
マーロウはもともと地方検事の捜査課で働いていました。それを辞めて、のちに私立探偵になるのですが、「なぜ辞めたのか」と聞かれて、こう答えます。
「クビになったんです。命令に服従しなかったという理由でね。服従しないのは十八番の芸当です」
(『大いなる眠り』双葉十三郎訳)
なぜ私立探偵をやっているのか、マーロウは直接的には答えていません。でも、このセリフにちゃんと匂いがある。
社会のはぐれ者ということです。
へらへらと愛想笑いもできない。強者にこびへつらうこともできない。やりたくないことはやりたくねえ。
そういう人間ができる仕事といったら、私立探偵くらいしかない。
たった一つのセリフで、それがぴたっと捉えられています。こういう匂いのあるキャラクターは強い。
閻魔大王の娘で、美女だから、魅力的なのではありません。そこに適切な謎が設定されているから、魅力的なキャラクターになるのです。
もう一つ、よい例を。
映画『男はつらいよ 寅次郎物語』。寅次郎(渥美清)と妹のさくら(倍賞千恵子)の二人きりのシーンです。
寅次郎「働くっていうのはな、博みてえに女房のため、子供のため、額に汗して、真っ黒な手ぇして、働く人たちのことを言うんだよ。俺たちは口から出まかせ。インチキくさい物、売ってよ。客も承知で、それに金払う。そんなところで、おまんまいただいてんだよ」
さくら「お兄ちゃん、それが分かっていながら」
寅次郎「それが渡世人のつれえところよ」
これはもう言うまでもありません。
寅次郎はこのとき、さくらに背中を向けています。
寅次郎は大事なことを話すときほど、さくらと面と向かわない。いつも心が逃げています。顔は笑っているけど、目は哀しそうにしている。そしてそのまま旅に出てしまう。さくらは黙って見送るしかない。
寅次郎がなぜ渡世人を続けるのか、直接的には答えていないけど、そこにちゃんと匂いがあります。
では、また次回。