木元哉多ゼミ〜推理作家の思考 第26回 社会講座 エンタメと風刺①
いつも迷うことがあります。
小説は(あるいは物語は)商品なのか、それとも芸術なのか。
一般的にいえば、商品は消費者のニーズに合わせて作られるものです。それに対して芸術は、クリエーターの内発的動機(創作意欲)から生まれるものです。
たとえば炊飯器という商品は、米を炊くのに必要な道具です。生活において米を炊く必要のある人全員に売れます。そういう人がこの日本に何人いるかは、データで分かります。
データを分析して需要を予測することをマーケティングといいます。
データはやがて細分化していきます。一度に十合炊く必要のある人、お茶碗一杯分だけ炊ければいい人、三分で炊ける炊飯器が欲しい人、竃で炊いたようなごはんを食べたい人。それに応じて、作られる炊飯器も細分化していく。
つまり需要があって作られるものが商品です。
しかしゴッホがひまわりの絵を描いたのは、その時代にひまわりの絵を欲しがる人がたくさんいたからではありません。ピカソがゲルニカを描いたのも同じです。オーダーがあって作られたものではない。
彼らがそれを描いたのは(売れる見込みもないのに)、彼らのなかに描かざるをえない何かがあったからです。そして、その作品が観る人の心を感動させ、魂を震わせたとき、それに価値を認めてお金を支払う人がいる。
芸術家が描かざるをえなかった「何か」と、観客の心を感動させる「何か」は、きっと呼応したものであるはずです。
もし誰も価値を認めず、それにお金を支払う人がいなければ、ゴミでしかない。
芸術とゴミは紙一重です。ゴッホの絵は、生前は誰にも価値を認められず、ゴミ同然に扱われていました。
ニーズがあって、売れるという予測が立つから作られたものが商品です。逆に、特にニーズはないし売れる見込みもないけど、作られたものに価値を認める人がいて、それにお金が支払われた場合、芸術になる。
誰も価値を認めず、お金を支払う人がいなければ、それはゴミでしかない。
商品と芸術とゴミは、おおまかにこのように定義できます。
映画は芸術、テレビドラマは商品。
ひと昔前までは、このような分かりやすい分類もありました。この場合、分類というより、棲み分けかもしれませんが。
テレビ番組は商品で、一般的にマーケティングによって作られます。その柱となるデータは視聴率です。
マーケティングの欠点は、みんな同じデータを見て、同じような分析をすれば、同じような商品ばかり作られるようになることです。
コンビニは特にその傾向が強い。
データを分析して、売れる商品は残し、売れない商品は外す。ということを十年以上やっていたら、どのコンビニでも似たような商品が並ぶようになります。
A社でおでんが売れていたら、B社でもやるようになる。結果、どこでもおでんはやっていて、あとは具材とか、細かいところで差をつけるしかなくなる。
テレビでも、やはり似たような番組が増えています。
民放各局の財政状況は基本的に同じで、テレビ離れが進むなかで、全体的に視聴率が落ちています。結果、採算が悪くなり、現場の制作予算が削られる。低予算で、かつデータ分析をして安定的に視聴率を稼げそうな番組を作ろうということになれば、似たような番組ばかりになるのは当然です。
A局のクイズ番組の視聴率がいいとなったら、それと似たようなクイズ番組をB局もC局もやるようになる。このタレントの視聴者好感度が高いという分析が出たら、各局で集中的に飽きられるまで使いまわされる。
結果、似たような番組が、いつも似たようなメンバーで作られるようになる。
ひと昔前だと、たとえば「フジテレビっぽさ」みたいなものが各局にあったと思うのですが、それも失われてきています。
視聴率が取れない時代に、予算もかぎられるなかで、手堅く視聴率を取りたいという気持ちをもってマーケティングしたら、そういう結果になります。
もちろん意欲的な番組も作られています。
ここでしか見ない企画を、ここでしか見ないメンバーでやっている番組もなくはない。
テレビ局のプロデューサーにも2タイプいるのでしょう。先の分類でいえば、商品タイプと芸術タイプ。
前者はマーケティングを基にして番組を作る。後者は、必ずしも売れるというデータはないけれど、自分がおもしろいと思う番組を作る。
「マーケティングなんて知らねえ、そんなこと気にしてたら金玉の縮みあがったような番組しか作れねえじゃねえか」という気骨のあるプロデューサーは今でもいると思う。でも、数は少ないはずです。
個性的な人より、そうでない人のほうが圧倒的に多いのだから、それは当然です。死んでもいいから冒険したい人より、手堅く生きたい人のほうが圧倒的に多い。ある意味、それが社会というものです。
テレビ局にはどちらのタイプも必要なのだと思います。
商品を作る人と、芸術を生みだす人。
しかし後者は時としてゴミを作ってしまうこともある。一方で、時として奇跡(パラダイムシフト)を起こすのはやはり後者で、まったくいなくなるのは問題だと思う。前者しかいなくなったテレビ界には、ゴッホもピカソも現れなくなってしまうからです。
近年、芸術らしい芸術は失われつつあります。
多かれ少なかれ商業主義の洗礼を浴びていて、マーケティングを意識せざるをえなくなっています。そのなかで自分をうまく商品化できた人が売れていて、それができなければいかに才能があっても淘汰されてしまう。
たとえば黒澤明でもそうです。
初期の黒澤は、映画を作るとき、マーケティングなんていっさい考慮していなかったように思います。純粋に内発的動機(創作意欲)だけでスタートし、それで完結していた。それがたまたま時代と合っていたから、彼の映画はヒットし、映画界の巨匠としてのしあがる。
しかし映画産業が斜陽になり、人々のニーズが変わってくるなかで、だんだん彼の感覚が時代と合わなくなっていく。黒澤には作りたい映画がある。なのに、「そんな映画、売れないよ」と映画会社は言う。
作りたい黒澤と、作らせない映画会社。
身も蓋もないことですが、結局、お金を出すのは映画会社です。
黒澤が要求する莫大な制作費と、マーケティングによって予想される興行収入がかけ離れている場合、たとえどんなに芸術的に優れたものであったとしても、会社はイエスとは言わない。イエスと言ったら、会社が潰れてしまいます。
このレベルでもめると、最終的に決裂するしかありません。
どんなジャンルでも、現代のクリエーターはこの種の葛藤を抱えています。まったく自由に、内発的動機だけでやっている人は、プロのレベルではいないと思う。
プロの世界はそんなに甘くないし、夢もありません。
では、また次回。