木元哉多ゼミ〜推理作家の思考 第35回 小説講座 第2巻第1話 武部建二編①

『閻魔堂沙羅の推理奇譚    負け犬たちの密室』第1話の武部建二編。
    最初の着想は、中年を主人公に据える、ということでした。
    第1巻とは目先を変えるためです。
    このシリーズの枠組みは「成長小説」なので、基本的に若者が主人公に選ばれています。若者にとって成長とは、単純にいえば親から自立することであり、これまでできなかったことができるようになることです。
    たとえば内気で人前で満足に話せなかった子供が、社会人になったらちゃんと自分の考えを言えるようにならなければいけない。すぐにできるようにはならないので、たくさん失敗して、怒られて、悔しい思いをして、その苦しみを経てやっとできるようになる。
    場合によっては試練を乗り越えて、ポテンシャルが引きだされ、隠れた才能が発現される場合もあります。学生時代は目立たなかった子供が、社会に出て数年経ったら、ガラッと変わっていたというのはわりとあることです。
    若者の成長物語は、多かれ少なかれ誰もが通る道なので、共感を得られやすい。物語の王道でもあります。
    中年を主人公に据えると、「成長」の意味合いは少し変わってきます。
    中年にはもうポテンシャルは残っていません。もし残っているとしたら、二十代、三十代は何をやっていたんだという話になります。成長の余地はなく、人間的には完成されてくるので、今さら大きく変貌することはありません。
    むしろ人生の軌道修正みたいなことがテーマになってきます。

    僕はイメージをふくらませる。
    ここに中年男性が一人いる。幸福とは言いがたい人生を送っている。
    孤独な一人暮らし。離婚歴があるか、そもそも結婚していない。
    でも、寂しいという感じではない。一人のほうが楽だからそうしている。結局、一人のほうが楽だというところに落ち着いている。
    いろいろあって、そういう結論に到達するような人生を歩んできた。
    それはどんな人生だろう。
    彼は一人で、狭いマンションの部屋に住んでいる。カップラーメンが主食。部屋なんて寝られれば狭くてかまわないし、食事など腹が満たされればなんでもいい。
    布団を干すこともせず、敷きっぱなし。部屋は埃だらけで、健康診断もずっとサボっている。自分を大事にしていない。
    その理由はなんだろう。
    おそらく彼はプライベートより、仕事に重きを置いている。
    休日は、疲れた体を休めるだけ。疲れていないときは、休日でも仕事をする。
    仕事のことが頭から離れない。それだけ真剣に取り組んでいるし、誇りも持っている。すべてにおいて仕事を優先し、自分のことは犠牲にしてきた。だから友だちも家族もいない。
    年齢は四十代。
    仕事に心血を注いできただけあって、能力は抜群に高いし、一個のスタイルを築きあげている。基本的には出世コースを歩んでいる。まわりからも一目置かれている。
    若いときは勢いで突っ走ってきた。でも、この年になって、少し虚しさみたいなものも感じるようになった。
「四十にして惑わず」というのだけど、むしろ惑いはじめている。
    若いころは、六十歳になったときの自分を想像できなかった。しかし四十代になった今、二十年後の自分をなんとなく想像できる。
    このまま定年まで働けば、たぶん部長クラスまで行ってキャリアを終えることになる。そのあと長い老後が待っている。でも、老後にやりたいことなど特にない。
    仕事は好きだ。やりがいもあるし、使命感もある。四十代とはいえ、衰えは感じていない。自信は過剰なくらいある。
    しかし人生のゴールが見えてしまった。
    そのゴールで不満がないなら、そのままレールの上を走っていけばいい。でも、それでいいのかと彼は思いはじめている。
    新しいことに挑戦するなら、今が年齢的にラストチャンスかもしれない。
    あるいはこれまでの人生を振りかえって、後悔していることがあり、悔い改めなければならない何かにぶち当たっているかもしれない。
    彼の人生は「惑い」ゾーンに入っている。この物語は、彼がそのなかから答えを見つけ出すまでの軌跡でなければいけない。
    僕はそんな中年男性を想像する。
    彼がそれほど打ち込む仕事とはなんだろう。
    公的な側面が強い仕事である。であれば刑事とか、医者とか。
    ミステリーとの相性のよさで、職業を刑事に設定する。ここにミステリーのエッセンスを一つ足すと、推理小説ができあがる。
    主人公は一度死んで、霊界に行く。謎を解いて生き返る。
    沙羅との対話を経て、「四十の惑い」はなくなっている。そのあと彼が何を選ぶのかは、書きながら考えていけばいい。

    主人公の名前を、武部建二とする。
    最初に浮かんだのは、冒頭のシーンです。
    冬の凍てつく夜、彼は息をひそめている。そこにチンピラが現れる。彼は出ていって、そのチンピラを叩きのめす。
    この冒頭のシーンは、物語の本筋とは関係ありません。
    ただ、短編なので、冒頭の数ページで主人公の名前、性別、年齢、職業を示すとともに、おおよそどういう人物なのかを読者に強く印象づける必要があります。
    スピルバーグ監督の映画『プライベート・ライアン』と同じ手法です。
    冒頭、ノルマンディー上陸作戦からはじまります。この戦闘自体は、物語の本筋とは関係ありません。
    ただ、主人公のミラー大尉(トム・ハンクス)とその部隊が、戦場においてどれだけ優秀か、そして彼らのキャラクターとおおよその関係性を示すこと、なにより観客をいきなり引き込む映像的なインパクトを狙っています。
    そのあと部隊は、戦場で迷子になっているライアン一等兵を探すという、戦局とはあまり関係のない、命を張る価値があるのかもよく分からないような気乗りしない任務をまかされる。ここからが本筋です。
    演出上、冒頭にノルマンディー上陸作戦がある場合とない場合とを考えたら、その効果は歴然としています。後者の場合、ぬるっと映画がはじまってしまう。
    冒頭の三十分を本筋とは関係ないことに使ってでも、観客が主人公に感情移入できている状況を作っていることが大事です。それができているからこそ、そこでいったんスローダウンして、物語をゆっくりはじめられる。
    走る、止まる、歩く、また走る。
    物語にはその緩急が必要で、止まる、止まる、というように、同じリズムが続いてはいけない。走る、走る、でもいけない。ここらへんは音楽にも通じるところです。
    では、また次回。

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