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着物生活30年のペテン師から脱出!
僕は、平成5年に洋服の全てを捨てた。それを「きもの宣言」と命名し、今日まで続いている。平成5年の6月スタートだから、今年で29年目。30年近く洋服が一枚もない生活なので、本当に洋服を着ていない。連続10000日「着物&作務衣」だけの生活だ。
30年の着物生活で「着心地」の良し悪しが分かるようになったのは言うまでもない。副産物として、能楽・茶道などの和文化に興味が出て、日本が大好きになっていった。
しかし、昨晩ふと気づいて、大きなため息が漏れた。「季節の着物と日本文化(仮称)」というオンライン講座に向けて、アレコレ思いを巡らしている時だった。
「僕は『きもの宣言』していて、着物を未来に残す日本でも稀な男だ!」と思っている。自尊心のかたまりのようなものだ。
しかし、本当に着物の良さ・素晴らしさを提唱することをないがしろにしていた。何と、「『着物を後世まで残しましょう』と言いながら、和の國が存続するためにはどうしたら良いか?」ばかりに思考がシフトしていたのだ。
その思いが強くなっていったのは、5年前の熊本地震の時。そしてコロナ禍に突入している今だ。
熊本地震の際は、新潟、香川、茨城、山形などの同業者の方々に「熊本地震復興展示会」を開催していただき、とても助けてもらった。地元に戻ると、痛々しい傷跡を目の当たりにする。
「普段でさえ着物を着ていると『??』というような目で見られることもあるのに、この震災の時に着物を着ていて本当に良いのだろうか?」と思い、いつの間にか「きもの宣言」の中のボーダーラインの"作務衣"で過ごしている日々が多かったのである。
それは、もちろんコロナ禍時代の今もそうである。
"作務衣"は、僕にとって、掃除の時や魚釣りや山登りの時など、"着物"では支障をきたす時のみに着るものであった。それが、僕を守り育ててくれる"着物"ではなく、"作務衣"を目立ちにくい保護色みたいな感じで愛用していることが多くなってきていたことに気づかされた。
着物姿は目立つので、温泉施設に行く時も作務衣が大半になっていた。浴衣で脱衣所に行きフンドシ姿になると、一瞬で視線を浴びる。浴場で僕を探して声かけられることもたまにあった。お馴染みの「田舎庵」という焼き鳥屋さんでもそうだ。
そんなこんなで、日常着として着物を愛用しているのではなく、いつしか着物は仕事着となり、着物より目立ちにくい作務衣に逃げていた自分を発見した。つまり、着物(作務衣)を着たペテン師をやっていたのである。
言っておくが、作務衣が悪いという話ではない。作務衣は大好きだ。ただ僕自身が、目立たないように控える人生にシフトしてしまっていただけのこと。普通に仕事はしているのだが、いつの間にか燃えたぎるような情熱が無くなり、パワフルさをなくしていた。エネルギーが満ちてこなかった原因は、「作務衣逃げ道病」だったのだ。
作務衣は、手入れも楽だし、着ていてラクだ。
でも、僕は「着物で全ての人々を笑顔にする」という大きなミッションがある。その為にも、仕事は当たり前だが、プライベートでも自信を持って、胸を張って着物を着ることが、本当に大事だと痛感した。
僕には、この着物道しかない。まっすぐに歩むだけだ。
追伸:
今日の画像は、約30年前「きもの宣言」当初、お客様、友人、知人、仕入れ先などに書いてもらったダルマです。また、そのお声もシェアさせてください。l