「延辺朝鮮族:中国歴史のフリンジにいる人たち」(上)作者:阿潑(黃奕瀠)(台湾) 訳者:金光浩(偽名)(中国朝鮮族)
訳者:皆さんこんにちは。朝鮮族出身の金光浩です。私の同胞たちと故郷の延辺のことを日本人の皆さんに知らせたいの気持ちで、この記事を翻訳ししいます。中国朝鮮族の本当の思いは、中国政府の中華民族のプロパガンダの下で、ちゃんと世界に伝ってないから、この台湾人の視点から朝鮮族を観察して書いた貴重な記事を日本人の皆さんに読ませたいと思います。私の日本語水準はご覧の通りあまり上手くないから申し訳ございませんが読んで頂く皆さんにありがとうございます。
https://www.thenewslens.com/amparticle/64090
知らせたいことがあります
韓国からのニュース情報を受け取りやすいからかもしれませんので、彼らの国際情勢に関する認識は普通の中国国民とは違います。チェ氏家族の人たちの心の中で、台湾と中国の関係は正に南北朝鮮の関係のようなものです。台湾の話になったら、彼らは皆台湾は自分の政権が持っているから中国とは別国だと認識していると伝いました。彼らはよく台湾が中国の一中政策の影響を受けて自国の国際地位が持っていないと感嘆し、台湾に同情の思いを抱えています。
正文
その北京から延吉までの高速列車は毎昼で発車する。一日中には一回のみ。私はこの轟いてる列車の中に座って、窓も外の世界は段々寒くなってると感じている。
「ここからは関外だよ」
夜のとばりに,列車がある駅に長い間にとまりました。私は窓からじっと眺めていたのが、まだ何も知らなさそうなままだった。
向こうに座ってるおじいさんはチキンレッグを食べながら私にそう説明してくれた。
これは、古代の異族侵入から国を防御するのために築き上げた關隘であるので、万里の長城の起点でもある。この山海關は、明王朝の皇帝の朱元璋は天下を奪ってを築き上げたものだったのが、正にここから吳三桂は清兵を率いて明王朝を転覆させました。これは、北方蛮族を漢族を分ける鮮明な界隈でした。現代になっても、このラインはまだ中国人の心の最中に残られています。ここはまるで中国の天然的地理座標のように、中国の普通のおじいさんの口からもついに出た。
私はちょうど前の日に北京の本屋で買った「尋路中国」という本を読んでいた。この本の真っ先には、著者の何伟(Peter Hessler)がジープに乗って長城に沿って運転するストーリーが書いてる。「北の方の草原は、防衛が配置されてはいなかった。ここには古代に数多い遊牧民族が住んでいた。彼らはよく隣りにいるあまり移転をしない民族たちの領地に侵入する。彼らの侵入から国を防衛するのために、中国人は城壁をたくさん築き上げた。このような防衛工事の建設は、B.C.500~600年にも遡られる。」
古代中国の国境は明確な分界線ではありませんでした。その分界線よく戦争や資源分配によって引き直されるものだった。これらの關防や隘口とかは、地理的分界線だけじゃなくて、アイデンティティとも強く繋がってる。私はこの列車に乗った直前には、甘粛省出身の友達の数人と北京で集まってた。故郷の話になったときは、彼らはそう強調した、「私たち故郷は口内にあるよ」。中国の北西地域は星星峡が分界線として、口内の甘粛省と口外の新疆に分けてる。こういう關防に関する概念は一種の暗示すぎない。それは、自分が中国歴史にしめる地位と「中国」との距離感なんだ。
駅前で北京から延吉までのチケットを買うとき、私は好奇心で甘粛の友達にそう聞いた、「この鉄道名前を知るの?」友達はそんな質問が聞かれることを予想できなかったので、まずはぼんやり、その後頭を横に振った。私は口をヘ字に曲げて、「なんで我々台湾人たちは中国人も知らないかもしれない鉄道の名前をしっかり覚えなきゃいけねんだろう」という文句を言った。
我々台湾人たちは聯考(共テ)を受験するのために、丸ごとの青春をこれらの鉄道の名前を暗記するのに捧げなきゃいけない。こいつらは誇りと屈辱で軌道になって、教科書に架けて、虫みたいに私の頭の中にウヨウヨとごめいて、試験用紙を完成したらすぐ蝶になって頭から飛び出して、どうしても思い出せなくなってきた。後で調べてからようやく思い出した。これは長春から図們までの長図鉄道なんだ。この鉄道は日本の「満鮮鉄道直達」という計画の重要な一環だった。1950年、日本は朝鮮と満洲という2つの植民地を交通的に繋がるのために、この朝鮮から長春までの直達鉄道を建設したので、この鉄道の隘口は正に図們であった。植民地の鉄道は通常に資源を略奪するのために植民者よって建設されるものだったで、朝鮮、満洲、台湾などの中国の「化外之地」の現代化の起点でもあった。
私は乗ってる列車はK215号と呼ばれる。北京から延吉までは一昼夜の時間がかかる。列車は吉林省に進入したから、太陽はもう地平線から昇ってきた。窓の外の景色をはっきり見えるのになったのもこれからのことだった。(訳者:G系高速列車でなら八時間だけで済む。高いけど)北の冬の景色は、私のような南の国からの客にとっては不思議だ。私は興奮してたまらなくて,窓にそのまま腹ばいになりたいほどこの雪の国の景色をたっぷり目に入らせたかった。日本や欧米などとは違い、中国東北の農村は特別だ。煙突はまっすぐ、雪がいっぱい敷き詰めてる大地に赤い春聯が貼ってる家々が並んで立って、春節の雰囲気がこの見慣れない景色を親切にしてた。
農地は雪にかぶされても整然として見える。「この鉄道の沿線のすべての水田も朝鮮族たちの世代の生息地だよ」。出発する前に、私はある朝鮮族出身の教授さんをお尋ねした。彼は私にこの一族の歴史を教えた。教授さんの性格は豪快でさっぱりして、とても北の国の民族らしかったのが、彼の名前と所属する大学はぜひ公開しないでと何回も何回も言いつけ繰り返した。このような言いつけは時々刻々に私は今異なる世界にいるんだと気づかせてる。中国政府は、ずっといくつかの領域を厳しく検閲してる。教授さんのような年寄りの中国知識人は、半世紀の政治激動を経験して、本にもなるほど豊富なストーリーが持ってるのが、一般人よりも慎まなきゃいけない。
教授さんは正に中国歴史のフリンジにいる人間だ。延辺生まれだけど、原籍は北朝鮮だ。中国語の”関”ではかれば、あれは関外よりも関外にあるとこだ。教授さんの父親は生活が窮乏だったのため、故郷の北朝鮮を離れ、当時の満州国に移住して、ある精米所で働いていた。結局そのまま故郷に戻らなかった。このような経済目的の朝鮮からの移民は中国東北にいくらでもいった。19世紀末でさえ半島の大規模凶作を逃れて東北に行く朝鮮人も多くいった。もちろん、昔々に高句麗帝国の勢力もこの黒い土地を覆ったこともある。日帝が朝鮮を入植したから、更に大勢な朝鮮人たちは生存のために鴨緑江、トムン江を越えて中国東北に来た。この中に金日成のような朝鮮独立運動に携わってたので日帝の指名を逃れた人もいくつかがいった。とりあえず、彼らの中国にいる子孫たちは、今の「中国朝鮮族」になっておる。
「日本は満州を入植したから当時の日本当局に満州に強制移住させられた朝鮮からの移民もいっぱいいった。植民者は彼らに黒い土地と水田をいっぱい分配した」と教授さんが言った。朝鮮人は当時の日帝の皇民だったから質の良い土地が全部朝鮮人がもらったので、漢族人はみんなやせてる土地しかもらえなかったから高粱と米しか植えられなかった。その時代には、日本人だけが一等、朝鮮人は二等、満州人は三等、漢族人は最底辺だった。「だから私は小さい頃からずっと漢族人に恨まれてると感じてる。我々はよく漢族人に高麗棒?子と貶される。」
世界各地の移民も大体様々な苦衷があるね。彼らはもし権力と階層の揉め事に巻き込まればネガティブなラベルを貼られる可能性もとても高いんだ。原生な住民たちは、自分と国籍も民族も文化も異なる社会の「侵入者」に対して、血統が汚されたり、生存空間が奪われたりすることを恐れてる。だからネガティブな貶す言葉がずっとそれに基づいて存在してる。これはまさに高麗棒子というような語彙の社会的根源だ。ラテンアメリカにも、欧米のアフリカ系も、台湾の東南アジア人でも、皆このような状況があります。
台湾には移民グループの強さは台湾に来た順番とは別に関係ない。東北の朝鮮人が最も肥沃な土地を手に入れたと同じく、台湾の漢族人も先住民たちを山林まで追い込んで、先住民たちから良い土地を奪った。ただし漢族人たちは歴史を述べる権利を持ってる一族だから、先住民と漢族人の共同労作は侵略の歴史じゃなく台湾の美談になった。1949年、中国から新しく来た移民たちは台湾の権力者になって、本来の移民の勢力は逆に新しい移民に抑圧されて、心にずっと悔しい思いを持ってる。この台湾の社会に隠されてる矛盾は、まるで導火線のように、いつか不穏をもたらすかもしれない。他の地域の移民の脈絡を整理することは、台湾の移民問題を反省するきっかけにもなる。
中国が改革開放の後、また韓国人達が中国にたくさん移住した。彼らは朝鮮族たちよりももっと遠いところについた。北京から青島まで至るところにも韓国人たちがコリアンタウンでも作ったほどいっぱいいる。朝鮮族出身の教授さんのお住まいの「望京」は正に北京城にあるコリアンタウンだ。
2007年の中秋節の休みに、私ははじめに北京に訪ねた。当時私は北京に対する第一印象は「韓国がどこにもある」。空港には韓国人旅人ばっかり、韓国語に囲まれていた私はほとんどまさか行き先でも間違われたかとも思ったところだった。空港から市内に行く途中はちょうど望京を経由した。同行の友人はずらっと並んでる高い建物をさして「こちらはコリアンタウンだ。韓国からの移民たちが住んでる。」と教えてくれた。
同年に発表された統計の通り、望京には約3千世帯の韓国人が住んでる。もう城の中の城と言っても過言じゃないぐらい。韓国のメディアによると、2007年当年北京に居住してた韓国人は約十万人があった。全中国には約三、四十万人にも達した。未来には百万人にも達せるという。後は08経済危機の影響を受けてたくさんの北京に商業を営んで住んでる韓国人が帰国したが、「北京にある韓国」が存在してる事実は依然として顕著だ望京だけでなく、北京には他にもたくさんのコリアンタウンがある。
第二次世界大戦が終わったら、大勢な朝鮮人が帰郷したが、中国に残された朝鮮人たちは、中共と北朝鮮政府との商議の下で、選択の余地ですらもらえないまま中国国籍に編入され、中国人になっちまった。1950年代、彼らは中国の55個の少数民族の中の朝鮮族になった。「我々はこれらの少数民族の中のただ一つの自分の国家を持ってる一族だ」と。しかし教授さんのこの論断は実は正しくない。中国にはロシア族やカザフ族とかのような越境民族は実は数個もある。
中国は自国の教科書に韓国に関する歴史を歪めて、勝手に韓国の歴史の起源を拭き取って、これは韓国人を怒らせてる。「ただの高句麗王国の一部の領土が今の中国にいるから。」中国人は更によく韓国人が中国の文化を自分のことだと言い張るというようなデマを飛ばす。中国と韓国は、歴史的かつ地理的にも近すぎるから、しょっちゅういろいろに揉め合う。このコンプレックスは、移民たちの心に時にはうごめいてくる。
だからこそ、20世紀の中国の雑多な政治運動に、朝鮮人たちは「民族整风」に深く苦しんだことがある。正しい「祖国観念」を朝鮮人に樹立させるのために、漢族人は頻繁的に朝鮮族を「批闘」される。「どうしても中国を祖国として認めたがらなかったからとってもひどい目に遭った年配の方たちはたくさんあったね」と教授さんが言った。文化大革命のとき、中国と北朝鮮の国交が緊張した。そのとき朝鮮族たちも朝中間の緊張した関係に巻き込まれてしまって、結構「北朝鮮からの工作員」と懐疑されて「批斗」された。「祖国やアイデンティティの話は今までもとても敏感だ」。この話題になったら教授さんも不平満々だ。彼は「中国朝鮮族」として人生のほとんどの時期にも「中華民族」に溶け込もうと強要されてるのが、自分の「半島人」のルーツを忘れたことは一度もない。
しかし、新しい世代はもうこのようなアイデンティティ問題を越えたらしい。教授さんの息子は北京生まれ育ちだから、東北にいる同胞たちのように朝鮮語学校に通う機会がない。息子さんは漢族人と一緒に勉強して、母国語の朝鮮語はほとんどしゃべれない。息子さんは、自分のことを中国人として認識してオリンピックに中国と韓国の対戦を見るとき、教授さんは韓国選手を応援してるとき、息子さんは積極的に中国選手を応援する。「腹が立つよね」と、教授さんは苦笑いながらそう言った。