好きなものを好きと言えること
くるりが好きだ。しかし、最近もっぱら聴いているのは実をいうとくるりではなく米津玄師の新譜である。ほぼ毎日、車の中で聴いている。久しぶりにCDというものを買ったのもこの新譜だった。それくらい魅力的な楽曲たちで売れてる売れてないとか、そういうものに振り回されるのはずっと嫌だったはずなのに、そうか、これがミリオンか。。。などと余計な考えが頭をめぐる。それでも、私はいいと思っている。というか思いたい。果たして、くるりが好きという自分と米津玄師が好きだという自分が両立するのか、もやもやしているが、そんな中でもどうか好きならどっちも好きでいいじゃんと誰かに言って欲しくて、こうして今PCに向かっている。誰かというのが、別に他人じゃなくて良くて、ここでこうして書いている自分ももうすでに自分ではない誰かのような気がしていて、結局独りごとだよなぁと思いつつ、こんなことしか書けないし、こういう独りごとを吐き出すためにこの場所をかりているのだとも思う。好きなものを当たり前のように、いいなぁ好きだなぁと思えることが本当に尊いものに感じるのはなぜなんだろうか。子供のころはそれが当たり前だったし、好きなものに囲まれることが自然だった。大人になってくると、審美眼が狂ってくるような気になる。余計な情報が多すぎて、誰かがいいねしたものを気づいたら自分も「いいね」していたり。くるりが一番好きなのは、自分が体調を崩し何も音楽を聴けなくなってしまった時、唯一聴けたのがくるりの「東京」だったからだ。音楽を心から楽しめなくて本来好きなはずの曲が聴けなくて、しんどくてつらかった時にくるりに出会えて本当に良かったと思っている。具合の悪い時にでも聴ける、自然と耳に心地よく入ってくる音楽というのは、少ない。事実、精神科の閉鎖病棟に1か月入院している時、毎日聴いていたのもくるりだった。何かの動画で吉岡里帆さんがくるりのことを「保水液のような存在」と表現しているのを見て、そうだほんとうだ!と偉く感激したのを覚えている。からからに乾ききった心にじんわりとゆっくりと浸透していく感覚。私は「温泉みたいだな」と思っている。毎日じゃなくてもいい。でも、人生の中で温泉の中に浸ることで心と体は満たされる。元気になる。ほっとする。そういう寄り添い方がとても好きだし、これからもそうであって欲しい。実際くるりの岸田さんは誰かに寄り添う音楽を!みたいなモットーとか強いメッセージ性を求めているというより、純粋にいつも音楽を楽しんで作っていて、ええのできたで!おもろいのできたから聴いてや!みたいなマインドのほうが伝わってきて、ああ楽しみ方は人それぞれ違っていいんだな、好きなものを好きって言っていいんだなと思える。米津玄師のほうは本当に仙人が作った音楽という印象(どういう印象)で、本人のラジオを聞けば聞くほどこの人は人生2周目くらいしているんじゃないかと本気で思うくらい、繊細で鋭い感性をもっている人だなぁ、と魅力に憑りつかれている。とんでもない人がいるもんだなぁと同年で生まれてきたことに不思議な気持ちになる。一方で、魅力を感じながらも米津玄師の表現する傷が痛々しいと思ってしまう自分もいて、彼のおそらく持っている魅力は傷ついた人の心を知っているという点も大きくあるように感じるが、それが私にとっては「バラのトゲ」のように心をちくちく刺しこれ以上前に進んではいけない、掘ってはいけない闇のようにも感じる。だから、新譜以外には興味を抱くことすらできない。知ることで傷つくのが怖いからだ。本人は世の光を自分は跳ね返すミラーボールみたいな存在だと表現していたが、私にとってはその光は刺激がやや強すぎるようだ。目が開けられない。そんな表現に惹かれるというのは、一重に自分の体調が2、3年の間に良い方向に向かっているという印だと思う。体調が悪かったら、こんな刺激の強い音楽は自分には向かない。その日の体調によって好きな音が変わるのはよくあることで、それに気づけたのは良かったなと思う。好きなものを好きだと言っていいし、嫌いになる日があってもいいし、また好きだと言って夢中になってもいい。
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