近場の山を1000回登ってみて

側から見たらなんの意味もない、自分でいえば自己満足にもならない行為を2年間続けてきたが、1000回を超えて、ようやく「やったな」と思えるようになってきた。近場の山歩き、標高差60m登行である。2年間の累計標高差が6万メートルに達したのである。

火星には太陽系最高峰のオリンポス山があるが、その標高は約2万5000メートルという。今のところ、その約2座分を登ったことになる。たかが60mでしかない標高差でも、バカのひとつ覚えの単純運動で太陽系最高峰に匹敵するとなれば、なかなかおもしろい。所詮自分にできることはその程度と深く認識しながらも、そんな小さな積み重ねでも、時に自信につながることを実感している。

そう考えてみると、富士登山100回とか、日本百名山踏破とか、カブで日本一周とか、そんな小市民的な目標にも、それなりの意義があるように思われる。何も、難しいことや苦しいことを達成することだけに、価値があるとも限らない。他人の評価はさておき、本人が満足できることが第一だろう。

なんとまあ、体のいいことをお前さんは言っていますけど、他人の評価が気になっているから、あえてこの場で書くのでしょう。そう、そこが人間のおもしろさなのだ。ご指摘通り、評価が全く気にならなければ書く必要などはない。書く限り気になる部分は必ずある。評価など自分には関係ないと思いながら、一方で他人の目が目一杯気になっている。そこに、自分というものがある。何もどちらか一方に振れなければならぬ理由などなく、中途半端なのが自分という存在なのだろう。同時にそれは、凡夫たる証左ともいえよう。

でも、それでもよいのだ。おそらく、登山家やクライマー、トレイルランナーが眺める風景に自分はまみえることはできないが、今自分に見えている風景こそが、自分が見ることができる風景だからだ。その意味では、他人の評価は関係ない。

山は、人それぞれに違った風景を楽しめるところがいい。

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