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朝顔のもう1つの顔
「中帰連」、「撫順の奇蹟」「赦しの花」…。これらの単語の中に知っている単語はいくつありますか?これらすべて、教科書には載らないけど日本の歴史の重要な部分を担っている史実たち。恥ずかしながら私は大学3年生になるまでいずれも知りませんでした。中国にルーツがある私ですら知らなかったのだから、今の若者も知らない人の割合の方が高いんじゃないかな。
「中帰連」は「中国帰還者連絡会」の略で、戦後中国の遼寧省撫順と山西省太原の戦犯管理所に収容された約1000人の元日本人兵士たちの有志が、帰国翌年の1957年に「日中友好と反戦平和」を願って設立した会のことです。
彼らが日本に帰国する直前、管理所の職員が朝顔の種を彼らに手渡しました。元兵士らと管理所の職員らの交流は「撫順の奇蹟」と呼ばれ、そのシンボルが赦しの花「撫順の朝顔」となりました。
ここまで聞いて、中帰連の歴史に興味が湧いたなら、中帰連について学ぶことができる施設を紹介します。埼玉県川越市にある「中帰連平和記念館」。私も、ゼミの先生の紹介により、10人(ほとんど学生)+先生でフィールドワーク先として中帰連平和記念館へ向かうことになりました。
3回くらい電車を乗り換えて、笠幡駅に到着。そこからまた25分ほど歩いて、小学校とか踏切とか見晴らしがよすぎるくらいの十字路交差点を越えて、最後に森林モドキをくぐり抜けたら、農業で使う倉庫のような外見の中帰連平和記念館が静かに建っている。
「朝顔があるよ」ゼミの先生の声に気づかされ、見てみると記念館入り口のすぐ横に朝顔が咲いていました。濃い紫色だったような。これが赦しの花なのか、と見つめる私を見返してくる見慣れた花。
記念館事務局長の芹沢さんに招き入れられ、記念館の中に足を踏み入れる。記念館の中は天井の高い公民館のようなイメージ(それもそのはず記念館の前身は農業用倉庫だった)。玄関とまっすぐ奥に伸びる廊下がつながっていて、廊下の左右には扉があって、別の部屋につながっている。左の部屋には、おじいさんおばあさんが集まって会議?していて、右の部屋を開けると大学の図書館並みの蔵書・資料があった。
廊下にはローテーブルが置いてあって、その上には中帰連に関する書籍がずらりと。また廊下の余白を全て埋める勢いで当時に関するポスターやマップ、そして本棚がびっしり配置されていた。「人道と寛恕」「国共内戦」「鬼から人へ」「認罪担白」「程度の差こそあれ」「特別軍事法廷」「周恩来総理」「シベリア抑留」など来た人に強烈なインパクトを残す赤文字ポスターも。
そしてメインは廊下の一番奥の部屋。入口のすぐ横に掛けられている「中日友好 世代相伝」と記されている旗が目に飛び込んでくる。すごい書斎の最終形態のような内装で、四面に見上げるほどの高さの本棚が置かれており、資料や書籍がびっしり収納されている。「エアコンを2台以上稼働させるとブレーカーが落ちちゃうのよ」(お?)と芹沢さんはつぶやきつつ、私たちはエアコンの効いた部屋で座り、スクリーンに映される資料を基にした中帰連に関する解説を聞く時間が設けられた。「実的刺突」「三光作戦」「百人切り将校」「凍傷実験室」「丸太」「人間地雷探知機」…。スクリーンに淡々と映し出される歴史は、私が知らないものばかりであった。
そんな残虐な行為を繰り返した日本兵らは管理所に収容された後、周恩来の指示により娯楽や豪勢な食事など破格の待遇を受けた。当然管理所の職員らは日本兵らが何一つ不自由ない生活を過ごすことに不満を示す。しかし6年という長い年月をかけて、日本兵らは自らの行いを顧みる手記を書いていく。この6年で日本兵と管理所の職員との関係は大きく変わっていく。最終的に、日本兵らを相手とした裁判が開かれたが、周恩来は日本兵の誰1人として死刑になることを認めなかった。そして日本兵らが日本へ帰国する際は、管理所の職員らが送別の宴を開くまでの関係に至った。
美しいと思った。日中間にこのような歴史が存在していることが嬉しかったし誇らしかった。その反面、今の日中関係を考えるとなぜこうなってしまったのか、じれったかった。6年の間に日本兵と職員との間にどのような交流があったのだろうか。なぜ職員は日本兵を受け入れることができたのか。日本兵が残した手記にはどのような内容が残されていたのか。なぜこの歴史はあまり知られていないのか。周恩来はなぜ日本兵に寛大な措置をとったのか。現代の中国では中帰連という歴史はどのような扱いを受けているのだろうか。中帰連のメンバーは、今の日中関係を目にして何を思うのか。様々な問いが浮かぶ中、私は記念館を後にした。
私は、日本側としてあるいは中国側としてこの歴史を受け止めるべきなのだろうか?分からないし、当分答えは出そうにない。けど私は日本語と中国語を使って中帰連に関する歴史を発信していくことができる。そこから始めて、得ることや変えられることがたくさんあると私は信じている。
私の夢は、ジャーナリストになって中帰連に関する記事を書くこと。そして現世と後世にこの歴史を語り継いでいくこと。今の日中関係には、中帰連という歴史が存在していた、という事実が必要だし、この歴史を知った日中両国の若者にどのような気持ち・考えが生じるか想像するだけでとても楽しみ。私が書いた記事の影響で、中帰連平和記念館への来館者数が増えて、あの芹沢さんが笑顔になったらいいな。
記念館では、日中間に存在した中帰連に関する歴史を主に学ぶことができます。また歴史を学び平和を追求する方々にとっては、中帰連のメンバーらが帰国後に行った数々の出版活動などを通して日中友好を望んだ軌跡に勇気づけられるものがあります。この現代において、「平和」について考えることは避けては通れない道です。突き詰めて考えれば考えるほど頭が痛くなります。分かります。そんな時、是非中帰連平和記念館へ訪れてみませんか。行かれる際は、是非最寄駅から徒歩で向かうことをお勧めします。自然との触れ合いの先に記念館は待っているので。
最後に、記念館で見つけた素敵な言葉を共有して終わります。
「前事不忘 后事之师」(過去の出来事を忘れずに、未来への教訓とする)
(中帰連平和記念館へのアクセスはここから)
https://npo-chuukiren.jimdofree.com/%E5%9F%BA%E6%9C%AC%E6%83%85%E5%A0%B1-%E4%BD%8F%E6%89%80-%E5%9C%B0%E5%9B%B3-%E4%BB%96/
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