ブログ初めてみました。

京央惨事以外の場所で自分の言葉を発信するのが怖かった。でもそろそろ克服しようと、ブログを始めてみようと思い立つ。

私は自分の言葉に自信がないのだと思う。結局主観であって正解ではないしきっと誰かにとっては『間違い』の言葉なのだ。そうやって間違いを指摘されて否定されることが怖かった。だから私はいつも京央の蓑に隠して言葉を守ってきた。

私は小学校の頃いじめが酷くて中学時代には登校拒否もしたことがあるが、その時に救われていたのが音楽の授業で触れて来た合唱曲だった。今ではタイトルも忘れたその歌の歌詞たちは、とても美しい言葉だった。どんな言葉だったのかも忘れた。だがはっきりと覚えていることは、「私をいじめている奴らがどうしてこんなに綺麗な言葉を発せるのだろう」ということだ。「この歌詞を歌っているなら気付いて欲しい、私がどれだけ悲しいのか、どれだけ苦しいのか、あなたたちがやっていることがどれだけ一人の人間を傷付けているのか」。でも彼らは気付かない。彼らには何も響かず、ただ与えられたメロディーに乗せて決められた言葉を口にしていただけだったのだ。だが当時の私は祈り続けた。彼らにこの言葉が届くようにと。結局卒業するまで届かなかったわけだが、それでも「いつか届くのではないか」と私は縋り続け、一種の希望にもなっていた。

言葉は使い方ひとつで人を生かしも殺しもする。だから私は「自分の言葉」を発する時にいつも身構えてしまう。役者として致命的だ。役者が「自分の言葉」を持たなければ与えられた台詞を繰り返すだけの人形だ。つまり私をいじめながら綺麗な言葉だけを音として口から出していた奴らと同じだ。自分の言葉として発さなければ演劇は成立しない。それは大学時代から頭では分かっていたのに、結局自分の言葉を守りながらでは会得できないのだろう。

「もう一度傷付こう」と思った。自分の言葉が否定されてもけなされてもそれでも誰かには届くことを信じ、きちんと傷付こうと覚悟を決めた。(傷付かなくていいのならそれに越したことはないので、荒らし上等とかそういう意味ではないです。)それほど言葉に臆病な私がこういう場所を持つということは相当な勇気が必要だった。後押ししてくれたのはのすりだったとも思う。「花岡は花岡の言葉を発信できる場を持てばいい」。そう言われて、寂しさと戸惑いがあったのは確かだ。それと同時に、「そんな簡単なことなんだ」とも思った。だが私にとっては簡単なことではないのだということを、改めて伝えたい。「言葉を発する」ということは、とても怖い。

最初の記事からなんだかネガティブな発言が多かったように感じるが、一旦は私の決意表明と言うことで。これからはこちらでもボチボチ言葉を発信していきますので、お気にかけて頂けると幸いです。


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