サイバー空間に棲息するからといって実体化してないわけじゃない~ある物書きのつぶやき
言葉を書く。
紙と言う物質があり、インクと言う物質があって、肉体を動かし、脳内に蠢く概念をコトバとして書き記す。
これはこれは立派な「具現化」行為。
でも――書き記す場がサイバー空間になったとたんに、実体が薄れてしまう。それは仕方がないことなのだろうとは思う。
ディスプレイ上に表示される文字(という画像)は、言ってみれば幻影のようなもの。
そこにあるように見えても、実体はない。
紙に書いたものなら確かな手触りがあり、重さがあり、厚みがある。
経年劣化して色も変化するし、インクの色だって褪めていくだろう。
でもそれがデジタル情報になると様相が変わる。
文書ファイルが何ギガバイトあろうと、重さもなく厚みもない。
サイバー空間に置かれているものは、わたしがそこに保存したものであっても、サーバーを見ることも、触れることもできない。
実体感がない。幻想のようだというのは、そういうこと。
なぜそんな繰り言をグダグダと書き連ねたのかと言うと……
その実体感のなさが、思わぬ落とし穴になっていたことに突然気づいたから。
紙に一文字一文字書く作業は、当然それなりの手間と時間がかかる。
書き続けるほどにページや原稿が増えていくから、目で見て、手で触れて、実感としてその質量を感じ取ることが出来る。
たとえば、一冊の本を書き上げるとする。
当然それ相応の時間と労働が必要なことは誰にでもイメージが出来る。
本と言う物理世界に実体化されたものがあるから、実感として想像がしやすいのだ。
でも、バーチャルなものは、その身体的に感じ取る実感が薄い。
コピペも簡単だし、手直しも簡単。
これが従来の紙に手書きではそうはいかない。
ちょっと言葉を直すだけでも、それなりの手間が必要。
原稿を直すには、赤ペンで書き込みを入れて、再度書き直す。
まあとにかく、なにをするにせよ、手間暇と言うものが必要だったし、それを当然のことと思っていたわけです。
それが、すっかりデジタル化して、なんか勝手が違ってしまった。
手間暇は実際にはかかるのだけど、その実体感が薄いんですよね。
一日中キーボードを打ってもペンだこできないし(笑)
修正の後だらけで真っ赤になった下書き、なんていうモノもないし。
最初から完成してます、みたいに見栄えの良いモノが目の前に出来上がる。
そこに注いだ時間と労力の跡が見えてこない。
だから、実際よりも簡単に、あっという間に出来上がったかのような錯覚が起きる。
本当は違うのにね。
錯覚なんです。それは分かっている。
いまこうして記事を書いているのだって、1分2分で出来るわけじゃない。
それは当然なんだけれど、そこにどうしても実感を持てない。
問題はなにかというと、その実感のなさが、勘違いを生んでしまうこと。
もっと早く出来るはず。すぐに出来上がるはず。
どうしてもそう思ってしまう。
でも、現実にはしっかりと時間も労力も必要。
それで自分の中の感覚と現実の変化速度との間にズレが生まれ、イライラする……なんかフシギな穴にハマっている感じ。
でもそれは幻影に過ぎない。
たとえ無機質な数字が並んでいるだけのデジタル情報だとしても、それはやはり実体化なんだよね。
脳内にうかぶイメージ・概念を3次元的に形あるものに変換する作業。
書き記すモノが手に取れる物質であろうと、幻のようなディスプレイ上の光の点滅であろうと、伝達手段としての言語化をしているという時点で、それはやはり実体化であり具現化。
だからそのためには、やはり、時間もエネルギーも必要だということ。
デジタル機器がお手軽過ぎて、ついつい勘違いしがちだけど、創造の本質はなにも変わっていないんだな。
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