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ある神の手記

私の告白を聞いて欲しい。
この手紙を読む頃、私はもう何処にも存在しないだろう。
ただ、愚かな私の懺悔をここにしたためる。

私は月神、Luno。
月の光の化身とも言われ、古くから人や動物に崇め奉られてきた。
そしてそれは、人成らざる者も同じ。
月明かりに闊歩する闇の連中もまた、私の月の力をその身にまとい宿すのだ。



ある夜、私は攫われた。
月神としての神事、月に捧げる舞を踊っていた晩だった。
目の前に突然現れた漆黒の影が、次の瞬間、私の身体を後ろから羽交い締めにした。
舞を踊っている間は私も陶酔状態にあったとは言え、迂闊だった。
張られていた結界は破られたのだろう。
私を守るべき精霊たちの姿も、その夜は何処にも姿が無かった。
「驚いた?」
首元で囁く息遣いが、私の心を凍てつかせた。
「なぁ、月の神を独り占めってのもいいだろ?あんたすげー綺麗だから、俺のものになんない?」
すらりと伸びた指が私の頬を撫でる。
不快感でぞくり、と背筋が冷えた。
「いーじゃん、その表情」
ニヤリと笑ったと思うと次の瞬間強い力で肢体を捕まれそのまま私は気を失った。
―悪魔だ。
意識が薄れる瞬間になんとか眼が捉えたそれは、黒い髪の隙間から覗く果ての無い常闇の中の無数の光。
1度覗き込むと、我が身を投じたくなるような、深い深い闇の中の無数の星々。
今思えば、その時既に私はその眼の虜になってしまったのだろう。それからは私の地獄での日々が始まった。

私を捉えた悪魔は、Noxと言った。
神を地獄へと連れ去り、魔力で外界から遮断された部屋に幽閉するなど、どれだけ罪深い行為かと私は奴に訴えた。
奴はそんな私を見ると愉しそうに笑い、足掻けるだけ足掻くといいよ、抵抗される方が燃えるからね、とその瞳を妖しく光らせた。 
それから私の身体を隅々まで堪能し、玩び、陵辱した。
勿論私は激しく抵抗し、力の限り抗い、その度に捻じ伏せられ、そして力尽きた。
悪魔は私を痛めつけながら、その最中甘い言葉を囁く。
私は段々と抵抗する力も気力も失われていくのを感じていた。
ただ、圧倒的な力で押し潰され、痛めつけられると同時に経験した事の無い快楽を与えられ、甘い吐息から囁かれる誘惑にだんだんと流されていった。
頭が、おかしくなりそうだった。 

私は高貴なる存在、月神。
皆が畏れ敬い崇め奉る。
静かに月明かりに照らされ、私が舞を踊ると、草木も花々も命あるものすべてが静寂をまとう。

だが今はどうだ。
月の光も届かぬ地獄の果てで、ただ毎夜、悪魔の玩具と化している。
抗いたいのに、この身体はもう奴を受け入れ、あろうことか奴を欲している。
認めたくは無いが、奴が現れると身体の中心が疼く。
その目で見つめられると、途端に私の頭には血が昇り、瞳は潤み、吐息が漏れ、自分でも抑えきれない程の鼓動が鳴り止まぬ。
その手で頬を撫でられると、身体に電気が走るが如く、もっともっとと欲望が己を衝き上げるのだ。

「かわいいなぁ。俺を見て、そんな風に欲情するようになっちゃって。かの月神様が、悪魔の俺にちょうだい、するの?」

「…うるさい!お前が私を…こんな風にしたのだっ…お前がっ…無理矢理…」

「あらら、ポロポロ涙を流して。可哀想に。酷い事して、ごめんね?俺を嫌いだよね?でも、抗えないんだよね?もうあんたは身も心も堕落した。俺が今開放しても神には戻れないよ?どうする?」

腹の底から愉快だと言わんばかりに、Noxがにっこりと微笑んだ。
美しく残忍なその瞳に、私は憎しみを込めて睨み返す。

「いい顔だ」
そう言うや私の唇を己の唇で塞ぎ、いっきに舌を捩じ込まれる。
そうなればもう、私はされるがままだ。
ただ奴が欲しくて欲しくてその衝動に身をまかせるしかなす術はなく。
涙を流しながら、己を恥じながら、ただ満たされたい欲望に抗えず奴を欲していた。
「かわいいな。ずっとここに居てよ?月神」
「…Luno…」
「ルノー?ああ、君の名前ね」
奴が言うように、もう私は天界にも行く場所がない。
悪魔にほだされ、堕落した神なぞ、誰が神と崇めよう。
「Luno、ずっと俺の側にいてよ。俺がずっとかわいがってあげるから」
そう言って抱きしめられ、私は何かが変わるのを感じた。
この感情はなんだ?
私は嬉しいのか?
目の前のこの悪魔に絆されたとでも?
「おやおや、名残惜しいけど時間だ。悪魔も忙しくてさ。またね、Luno」
そう言うとひらりと手を振りNoxは姿を消した。
どこで何をしているのか、奴はほとんどその行動が謎である。
私はまた奴が現れるまでの間、この昼とも夜ともわからぬ地獄でただ奴を待ち時を過ごすしか術が無い。
鎖をつけられているわけでも無い。檻に入れられているわけでも無い。ただ、一室に幽閉されているのだ。
逃げようと思えば逃げられた。
見張りの使い魔などは私の力でどうとでもなる。私は神なのだ。
だが、私は逃げられなかった。
逃げてどうする。何処へ行く。
天界にはもう戻れぬ事を自分自身が1番よくわかっていた。
悪魔と交わったのだ。魂は穢れてしまった。
神を名乗る資格なぞもう無い。
それ以前に、あの快楽を欲情を今もなお待ち望んでやまないこの身にはもう…。
ひたひたと涙がこぼれ落ち部屋の床を濡らした。私は…どうしたらよいのか。

「Luno」
不意に名を呼ばれ、辺りを見回す。
Noxが来たか?いや、違う…。この感覚は…。
ー冥府か。
そう直感するや、辺りを見まわすと小さな黒い影のようなものが現れた。
鼠程の大きさだろうか。
小さな影は目の前に来るとふっと霧のように消えた。
同時に懐かしい声が頭の中に直接届いたのだ。それは旧友の兄神の声であった。

『汝の苦しみから開放されたくば、これを使いなさい』

冥府の神、紅詠月の懐かしい声がしたと同時に、消えた影の場所にペンダントが現れた。
そのペンダントを見て私は瞬時に成すべき事を理解した。
「ありがとう…私を許してくれ…」
私はそのペンダントを首に掛けると、月に祈りを捧げた。
開放されるのだ。この地獄の苦しみから。
次の瞬間、私の姿は跡形も無く消滅した。
あとに残されたのは、ペンダントだけであった。


「……やられた」
私に会いに来たNoxがガランとした部屋に残されたペンダントを見つめている。
冥府の神が、何重もの魔力で地獄の闇の底に隠されたこの部屋まで、思念と共に私を消滅させる力を乗せたペンダントを送り込んだのだ。
私はそれを使い、この世から消滅した。
ただ、魂だけはまだこのように浮遊状態にある。それもじきに消えるだろう。 
私は苦しみから開放されたのだ。

「月神…くそっ!!」
Noxは苛立ちを抑えきれずに悪態をつく。

ー少しは悲しんでくれたのだろうか。
Nox…私はお前を…悪魔であるお前のことを…。
いや、そんな事はどうでもよい。
私は安らかに消えゆく自身の魂を感じながら、友に宛てた手記を最後の力で残した。
これが届く頃は、私はこの世界の何処にも存在しないだろう。


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