文章作りが苦手なあなたへ。一万字に込めたきむ兄の日本語への思い
私が立ち上げたオンラインサロン「きむ兄の日本語ラボ 読みやすい文章 伝わる文章」を立ち上げてから2週間ほど経ちました。おかげさまで、初月から12名の方がサロンに加入してくれました。あらためて、ありがとうございます。
今回はサロンメンバーの方や、サロンに興味のある皆さんに向けて、このサロンを立ち上げた目的や意義、サロンを通じて私が皆さんと共に思い描いている未来について、かなり長い文章で書きたいと思います。(目標は2万字でしたが、1万字で断念しました)
私の日本語が「読みやすくて伝わる」と言われる理由を因数分解してみる
私はサロンを立ち上げる前から「文章でいかに、自分の思いや考えを伝えるか」に熱量を持って取り組んできました。ライティングのお仕事をいただく中で、取材した相手の魅力が最大限伝わるように言葉を選びつつ、読んだ人の心を動かす、動かせないまでも「なんかいいよね、この記事」と思ってもらえるように魂を込めて記事を書いています。気持ちは完全にロックンローラー。
記事を書いて世の中に公開されると、様々な反響を頂きます。その中で「きむ兄の記事は読みやすくて、内容がスッと入ってくる」という感想を頂く機会が増えていきました。
自分で書いて読んで、様々な人のチェックを経て公開される原稿なので、当然ながら自分で見返す分には内容はスッと入ってきます。当初は「ありがとうございます」と言いつつも、「読みやすさの理由」をうまく説明できませんでした。
それでも、数十人の私の友人・知人、世代を問わず様々な方から同じような感想を頂き、「とりあえず、私の文章は読みやすい」という自覚は持つようになりました。ありがとうございます。
「きむ兄の文章は情景が伝わる。例えもわかりやすい」という声も頂きます。これは読みやすさとはちょっと違う角度での評価です。情景を文章で伝える行為は、読みやすさとはある意味対極なものです。書き手が見聞きして文章を見て、読み手が「なるほど!」という情景を浮かべられるかがキモになるからです。そのためには語彙力が大切になってきますし、言葉の使いどころもセンスが問われます。
でも、書き手と読み手との間に浮かぶ情景をピチッと合わせるのは不可能です。書き手と読み手が同じ時間に同じ体験をしていないと(注釈:出来事は共有できてもそれぞれの目線が違うので、それも全く同じではないが)情景は完璧に共有できないので、文章表現で「疑似共有」をする必要があります。これが出来る人が「伝え上手」という評価をいただけると考えています。
結果的に上記の評価を頂くまでに、私はどんな文章を書いて世に出してきたのか、振り返りを交えつつ因数分解していきます。
ニュース原稿の仕組み・編集方法を骨の髄までたたき込まれたアラサー時代
私は2000年代から、ベーシストとしてのホームページやブログ、ツイッターやフェイスブックなどのSNSで、自分の日常や考えを発信し続けています。放送作家になる前、まだフリーター兼バンドマンだった頃から、定期的に書き続けています。自作サイト、魔法のiらんど、mixi、gooブログ、アメブロ、ツイッターにフェイスブック、時とともに使うツールも変化してきました。
ブログとして残っている私の最も古い記事は2005年1月末。17年も前に遡ります。この頃は「いいね!」ボタンなどはなく、トラックバック機能とコメント欄くらいしか反響のバロメーターがなくて気楽に投稿できた時代です。
ただ、周りでブログをやっている人はそんなにいませんでした。当時はなかったTwitterのように気軽なものではなく、きちんと文章を書くイメージがあるブログというツールへのハードルの高さもあったかもしれません。ビジネスや集客で使うという人も私の周りには見かけなかったので、仲間内でのデジタル上の公開日記みたいな感じで使っていました。
いま読み返してみると、文章の体裁はさほど変わりませんが、ちょっと斜に構えているというか、全くもって素直さがないのは性格がいまよりも尖っているからでしょうね。当時は「オリンピックで盛り上がってるヤツらみんなクソだな」と、よくわかんない考えを持っていました。いまですか?カーリングの決勝進出のハイライトを見るだけでウルッときますが、何か?
日本語・文章で報酬をもらうようになったのは放送作家になってからです。ただ、なりたての頃は日本語や文章を学ぼうとかは考えたこともなく、「面白い企画やネタを作るための発想を広げなくてはいかん!」ということばかり考えていました。
日本語・文章を体系的に会得したキッカケは、東京のテレビ局の報道スタッフになったことです。ニュース番組の原稿をリライト・編集してインターネットなどに発信する業務を任されました。テレビ番組のスタッフというより「テレビ局の報道スタッフ・ネット編集チーム」の役割だったので、私が思い描いている放送作家の業務とは全くかけ離れたものでした。
でも、テレビ局で働けるという期待感と、父親が新聞販売店の経営や店長をしていたので、身近にあった新聞を10代の頃からそれなりに(テレビ欄とスポーツ紙くらいでしたが)読んでいました。そんな経験から「まぁ、何とかなるだろー」と思い、志願してスタッフになりました。余談として、時は2006年10月、まだiPhoneもなく、ガラケー全盛時代。ネットでニュースを見る習慣など殆どない時代です。
この現場では、ニュース原稿を作る原則「5W1H(「When=いつ」「Where=どこで」「Who=誰が」「What=何を」「Why=なぜ」「How=どのように」)」と、日本語の用法・事例などを骨の髄までたたき込まれました。
あの池上彰さんもNHKの新人時代、記者として先輩の原稿を書き写していたそう。私もほぼ同じ経験をしたので、とってもわかりみです。当時の私も完全にロボットみたいになっていました。
公開するニュース原稿は地上波で放送される内容と同じく、間違いは許されません。元々のデータ化された原稿には誤字があることがあります。よくあるのは「×容疑者を追求」「○容疑者を追及」。ただ、こうした誤植は、テレビ局にいる校閲のスタッフさんによって、字幕スーパーになる時点で修正がされ、原稿も修正されます。
ただ時折、私たちの部署には間違ったままの原稿がデータ化されてくることがありました。そこで見逃してしまうと、ネット上に誤字が含まれた原稿が公開されてしまいます。それは避けなければなりません。
「追及」の事例はまだいいほうで、「招集」と「召集」や「伯父」と「叔父」の使い分けなど、日常生活を送っていたら「こんな日本語書かないし、使わん!」という日本語にたくさん触れてきました。
そんな業務だったので、私たち自身も校閲スタッフばりに日本語の使い方をマスターしました。そこで使われるのが共同通信の記者ハンドブック。報道現場を離れた後も自分用に購入し、原稿作成の時に使います。といっても、内容の殆どが頭に入っているので、開くのはたまーにです。(ちなみに、この春、最新の第14版が出るそう。もちろん買います!)
「ニュース原稿の要約」という業務も長年こなしました。こうしたニュースを読みやすくコンパクトにまとめることで、読者に読みやすいニュースを提供していました。例を挙げると…
上記の原稿を要約すると、下記になります。
構成を組み替えていますが、伝えるボリュームは同量にした上で、一読してスッと内容が入るように工夫をしています。リード文をなくし、時系列に沿って直すことで、混乱なく読めるようにしています。(サロンの中で、この工夫のメソッドはお伝えしていきます)
ニュースは鮮度が命なので、こうした要約作業を一本5〜10分程度、一日で50本程度は作業としてこなしていました。この業務を10年近く続けていたので、文章の構成や要約に関しては余裕で1万時間を超える作業をしているので、エキスパートになっているのを自覚しています。
企画書作りやメール作成に役立った原稿編集スキル
報道スタッフとして日々原稿に触れて編集して身につけたスキルは、放送作家としてのスキルを大幅に向上させてくれました。
まず放送作家のキモとなる企画書作り。私自身はそんなに企画書を書いていないので偉そうな発言は出来ませんが、番組の企画書をペライチ(A4の1枚)に文章だけでまとめるのはめちゃくちゃ楽になりました。放送作家を離れてからメディアやイベントの企画書作りにも役立っています。
そもそもプレゼンをする企画書ではなく、1枚で文章で分かる企画書のほうが先方も時間を取らずに趣旨を理解できるのですから、絶対的に私の書き方のほうがWin-Winです。
書き方のコツは、新聞記事の作り方にあります。
ニュースのリライト原稿を見ると、新聞のベタ記事っぽい感じになっているのが分かると思います。実はムダのない文章の代表格は新聞記事なんです。回りくどい書き方やムダな日本語を削いだ結果、リライト原稿が生まれました。(気合を入れて書いてないので、まだ削る余地はありますが)
小説やコラム・エッセイを書くときは、余白とか言い回しとか、くどい表現をふんだんに入れ込むべきだと思います。しかし、ビジネスに関する企画書やメールなどは一読、いや「一目」しただけで理解できる文章がよいわけです。
サロンの中ではこうしたテクニック的な事もお伝えしていきたいのですが、これは練習と訓練の賜物なので数ヶ月レクチャーしても身につけるのは大変だと思います。(実際、報道スタッフの編集チームとして独り立ちするのに半年かかりましたし)
普段から文章を書き続けている人が、ある日急に「あれ、なんかムダな文章がある」と気づいてレベルアップしていくものです。僕もそうでしたし、現場でレクチャーした後輩で伸びていくのは、日頃から文章を書きまくっている仕事(ライターとか編集者とか)の経験がある人でした。
サロンのメンバーにヒアリングする中で、私が繰り返し「読みやすい文章も伝わる文章も、書き続けないと身につかない」。と伝えています。これは、僕自身が15年以上、文章を書き続けていることが「論より証拠」になっていると自負しています。
先日の週刊ダイヤモンドに「史上最強の文章メソッド完全網羅! 伝わる 文章術」という特集が組まれていました。「デジタルツールの使いこなしには文章力が欠かせない。テクニック伝授します!」的な内容なのですが、昨年、週刊東洋経済でもこうした特集が組まれました。
こうした特集が組まれるのには、テクニックを学べばいい文章を書けると思い込んでいる人が多すぎるという背景があります。ただ、現実として、テクニック(手法)だけ身につけても、文章は上達しません。上達のキッカケにはなると思いますが、実践し続けないと身にはなりません。
「お疲れ様です」を書け。型を気にするコミュ力不足な人々
例えばスポーツ雑誌に「野球上達法」と書かれていて、バッティングやフィールディングの解説を読んでも上達はしません。当たり前ですよね。でも、その当たり前が、なぜか「文章上達法」だとまかり通る傾向があります。
これは日本人の多くが「日本語をきちんと使いこなせている」と思っていることからくる弊害だと思っています。
「日本語」はデザインやプログラミングと違って、義務教育で国語として基本的文法などを学びます。いま日本で生活している大人の多くは日常で読んだり書いたり話したりするので、「もうこれ以上、日本語のなにを学ぶ必要があるのか」と感じている人もいます。
でも、それはあくまでも基礎的な日本語・文章の話です。基礎的に日本語・文章を学んでも、「読みやすく伝わる」日本語を使いこなせる人は決して多くないと思います。なぜなら、読み手を考えた文章作りを学校で体系的に学んでいないからです。
そもそも、日本語とは何のためにあるのか。いろんな考えがありますが、私はコミュニケーションツールの一つと捉えています。
遅ればせながら私がそれに気づいたのは、ニュース原稿をネットに発信する業務を始めてからでした。ニュース原稿や新聞記事は不特定多数の読者(視聴者)に届けるために作られます。100人いたら100人が同じ内容として理解してくれないといけません。だからこそ、主語や述語、副詞に形容詞といった文法を上手に使いこなす必要があるし、「型」が必要になってきます。記事の場合は「5W1H」が一つの型です。
多くの人は基本的な日本語しか学ばないまま、コミュニケーションツールとしての日本語の「型」を学ばないまま社会に出ます。社会に出て、マナー研修と称してメールの書き方を学んだり、最近だとチャットツールのお作法なども学びます。
ブログもメールもLINEもslackもChatWorkも自己表現→相互理解へつながるためのコミュニケーションツールに過ぎないので、こうした研修自体にも意義と目的はあります。
例えば「上司や取引先を不快にさせない型」を学べるので、無難なコミュニケーションを体得できます。私自身も、放送作家になりたての頃、社内メールで「お疲れ様です」と書かないで送った先輩へのメールで、「お疲れ様ですくらい書け」とお叱りを受けたことがありました。
「あ、お疲れ様ですって書かないと怒る人がいるんだ」と思った僕は「お→tab」と打ったら「お疲れさまです」と変換されるように登録して、メールソフトを立ち上げてからの「お→tab儀式」が一つのルーティンになりました。その時は面倒くさいなーと思いましたが、これで不快になる人が減るならいいやー。世の中そんなもんだなーとも思いました。
人・モノ・コトのストーリーをライターとして書き始める
報道現場での業務で日本語を使いこなせるようになり、この業務を始めて10年が過ぎた頃、一つの転機が訪れます。ライターとしてのキャリアのスタートです。
ひょんなご縁をいただき、another life.というウェブメディアの編集部から「木村さんの文章は読みやすくて分かりやすいので、よかったら執筆してみませんか?」とお声がけを頂きました。2018年の終わり頃だったと思います。
当時は放送作家として番組の台本を書いたり企画書を書いたりしていました。ニュース原稿も書いていたので、常日頃から日本語を書いている環境でしたが、ライターを名乗っていたわけではありませんでした。でも、放送作家を英語に訳すと「TV writer」なので、ライターでもあるなと。
この頃は、自分の書く文章など読みやすくてわかりやすいとは思っていなかったので(ニュース原稿や放送台本は書けると思っていた)、果たしてウェブメディアという媒体で私がお役に立てるのだろうかと思いました。でも、せっかくもらった話だし、チャレンジしてみようと思いまして、最初は取材に同席させていただく研修のような形から入りました。
放送作家として、番組ゲストとの打ち合わせでやり取りをしたり、話題になっている事例やサービスを取材に行ったりする経験はしていました。しかし、同行した取材はそれまでのやり方とは違いました。
番組での取材や打ち合わせは、話題になっている商品やサービスを中心に話を聞きます。しかし、another life.は人の半生にフォーカスをして話を聞きます。
「何でその行動を取ったのか」「その行動を取ったとき、どんな感情だったか」「感情が動いたとき、どんな事を感じたか」。これまで経験したことのない新鮮な気持ちでの取材の場でした。「へー、こんな聞き方するんだぁ」と。
と同時に、この取材手法を身につけたらもっと自分の人間力も上がるし、取材の幅が広がると思ったので、積極的にインタビューの手法を会得しようと思いました。
同じ目線での対話。アドラー心理学から学んだ取材スキル
同時期に心理学の本も読みあさりました。特にアドラー心理学に興味を持ち、「問いの立てる」といった哲学的な、心理学の本質を突く部分に惹かれました。また、コミュニケーションで大切な「同じ目線での対話」も取材手法の一助になると考えました。
こうして自分なりの取材の「型」を模索していきました。ライターというより、インタビュアーとしてのスキルを上げていった感じです。でも、この経験がなかったら、「伝わる文章」は書けないんです。取材対象が伝えたい本質的な部分を言語化できないから。
インタビュアーとして様々な人を取材していく中で、好奇心から生まれる質問力がキモになるなと感じるようになりました。取材相手への好奇心がないとインタビュアーとしては失格だろうと思うほど、相手への好奇心・リスペクトが大切だと、僕は思います。
このブログの執筆と執筆のスキマ時間で、サロンメンバーの壁打ちをしていました。この壁打ちの中でメンバーは「書く文章が薄いのが悩みなんです」と打ち明けてくれました。
普通なら「この人は自分が書く文章が薄いが悩みなんだ。なるほど」とスルーする人もいるかもしれません。でも、サロン主宰者の私としては「薄っぺらい」という感覚が、その人にとってどんな感覚なのかを掘り下げる必要があります。私と相談者の「薄っぺらい」が「同じ薄さ」かどうかは、上記のやり取りだけでは分からないからです。さらに「薄っぺらい」ってそもそもどういう意味なのか、そのあたりの感覚をすり合わせる必要があります。
どんな人の話でも、抽象的な概念のレベルは自分にしか分かりません。「めっちゃ美味いラーメン」と表現があったとして、どのくらい美味いラーメンなのか、その感覚は言った本人にしかわかりません。
その感覚をそこにいる全員が同じレベルで共有できるようにする。そして、言語化して不特定多数の読者と共有する。実際に自分が取材をして原稿にする過程で、原稿作りの難しさと原稿を完成させたときの達成感が得られる喜びを得ていきました。「やば、取材って大変やけど、めっちゃオモロイし、それを言語化する作業も好き」みたいな。
質問力を磨けば磨くほど、興味のある人に対してのコミュニケーションが面白いように出来るようになっていきました。その人のバックボーンにはなにがあるのか、どんな考えや思いを持ってその活動をしているのか、聞けば聞くほど、その人を応援したくなります。
another life.での取材で培った経験は、当然ながら放送作家としても役立ちました。テレビ・ラジオ番組のゲストへの質問ややり取りも深いものになりましたし、食事や飲み会の席で出会った人に取材のように質問攻めをして、「この人面白いリスト」がどんどんストックされていきました。ネタがどんどんたまっていく感覚が快感でした。
文章的心理的安全性の場を目指して
私のサロンのサブタイトルは「読みやすい文章 伝わる文章」です。これまで書いた文章をまとめると、私が考える「読みやすい文章」とは「事実をなるべくロジカルに、端的にまとめた文章」、「伝わる文章」とは「読み手の心を刺激し、動かし、行動変容がゴールとなる文章」と定義します。
がしかし、これが出来るようになるには書き続けるという実践が必要です。どんな人でも、文章を書き続ければ文章力は間違いなく上がります。重ねて書きますが、それは私自身の経験と文章が証明していると思っています。
それを踏まえた上で掲げる「きむ兄の日本語サロン 読みやすい文章 伝わる文章」のミッション・ビジョン・バリューはこちらです。
私はこのサロンを通じて、誰もが自信と信念を持って、「届け、伝われ!」という文章を発信できるマインドを持ってほしいと思っています。
サロンを立ち上げる前、2020年から21年にかけて、自分主催の講座を単発で展開しました。日本語講座にPR講座、フリーランス向け勉強会も開催して、それなりの好評価をいただきました。(単発での講座や勉強会はサロン内外でも展開していく予定です)
講座を開いて受講者の皆さんと交流をする中で、特に課題を感じたのはマインド、心の部分でした。「この文章で発信をしてもいいのだろうか?」「こんなことを書いて誰かに何か言われたらどうしよう」という声をいただいたんです。
「え、別に何の違和感もないですよ。ちょっと構成を組み替えれば伝えたい意図が明確になると思いますよ」と簡単なフィードバックで済むくらい、文章自体はまとまっているんです。実際、こうしたマインド傾向の人のほうが文章力は高いんじゃないかと思います。日本語に対して何も考えていない人、「私の文章イケてるっしょ」的な人のほうが「てにをは」も雑だし、「、」の位置もテキトーです。あくまで経験則ですが。
声を大にして言いますが、日本語を上手に操る人は常に書き続けているのだろうと思わせるほど。文章力は相当なモノです。私などまだまだのレベルだと思わせるような書き手さんは、世の中にごまんといます。
でも、その方々と自分を比べてもしょうがないし、比べてしまうと、それこそ発信するのが嫌になってしまいます。「だってあの人の文章には叶わない」と。この考えもアドラー心理学から学びました。
文章を書くことに苦手意識を持っているのは、過去の経験で何か引っ張られている出来事があるのかもしれません。それは小手先のテクニックで解消できるものではなく、自分自身が文章に向き合い、リハビリのようにちょっとずつ歩いていくしか解決方法はないと思っています。
私が問題だと感じているのは、何かのきっかけで文章を書くことや発信をすることに苦手意識を持ってしまっている人が、私の予想以上に多いことでした。ちょっと驚いたくらいです。
この問題提起を記事の最終盤に持ってきているのは、この記事を読み進められたら、文章を書く素質は充分にあると思ったからです。素質はあるのに「いや、わたし文章書くのは苦手で…」と思っているのであれば、私と一緒に日本語や文章と向き合いませんか?てか、向き合いましょう!
向き合って文章が上達する保証は出来ません。でも、私やサロンメンバーと一緒に文章に向き合い、ちょっとずつちょっとずつ文章を書く楽しさやワクワクを共有していければいいなと思っています。
サロンではテクニック的なメソッドもお伝えしますが、基本的には「テーマ決めて、書いてみて、発信してみて、褒めてみる」という、ある軍人さんの名言にインスパイアされたかのようなスタンスで臨んでいこうと思います。
「わざわざ文章をSNSで発信する必要なんてないやー」「別に自分が良ければ文章なんてどうでもいい」という考えもあります。おっしゃる通り、その通りです。人に迷惑をかけたり意図して傷つけたりする文章を発信しなければ、特に問題はないと思います。
ただ私は、サロンメンバーの皆さんは逆に日本語や文章に対する意識が高いと思っています。日本語や文章に悩んでいるのがその証です。
私はフリーランスとして15年、独立して数年経っている立場なので、発信をして見つけてもらわないと、いないものと同じです。だから発信を続けていますし、「見つけてー。きむ兄ここにいるよー」と常に思っています。
今回、サロン開設にあたり、一つのブログを「発見」しました。記事の序盤でお見せした、私が20代の時に書いたブログです。
「きっとこの人は何者かになりたくて、ずっともがいているんだなぁ」と、俯瞰した気持ちで見ている自分がいました。残っているブログには2005年から2008年の出来事が書かれていました。
なんで書くのをやめてしまったのかは全く思い出せません。でも、その1年後にはツイッターを始め、そのさらに1年後にはフェイスブックのアカウントを作っています。
「アラサーの木村さん、やっぱり発信するの好きなんじゃん。面白いやつ・変わった奴って思われたいんじゃん」と、これまたアラフォーのきむ兄が投稿やツイートを見ながらツッコミを入れるなんて、アラサーの木村さんは思いもよらないでしょうね。
今回、この記事を書くにあたり、ツイッターで「目標2万字」と掲げました。しかし、一日で書き続けるにはなかなかキツく、仕事でないならもう1万字でいいやーと、1万字を超えたところで〆に入っております。
サロンへの思い、日本語への考え方など、私が伝えたいことの半分は伝えられたので、読み手の皆さんに伝わればいいなという願いを込めて、この記事を締めさせていただきます。もう半分を書くかどうかは、いろいろ昔のことや日本語のメソッドを思い出しながら考えたいと思います。
最後までご覧頂き、ありがとうございました!