神島〜万葉集「挽歌」の詠まれた地
万葉集巻第十三に、備後(きびのみちのしり)の国の神島(かみしま)の浜にして、調使首(つきのおみのおびと)、屍(しかばね)を見て作る歌があります。長歌と反歌、合わせて九首です。
最初の長歌は次のとおりです。(伊藤博釋注『萬葉集』七より引用)
三三三五
玉桙の 道行く人は あしひきの 山行き野行き 直海(ひたうみ)の 川行き渡り 鯨魚(いさな)取り 海道(うみぢ)に出でて 畏(かしこ)きや 神の渡りは 吹く風も のどには吹かず 立つ波も おほには立たず とゐ波の 塞(ささ)ふる道を 誰が心 労(いた)はしとかも 直渡(ただわた)りけむ 直渡りけむ
(訳)
玉桙の旅道を辿る人は、山を行き野を越え、川を渡り海道に乗り出して、恐ろしい神のいます難所も難所、吹く風ものどかには吹かず、立つ波も並には立たず、うねり波の立ちはだかる道、そんな恐ろしい道を、いったい誰の心をいたわしいと思ってまっすぐに渡って来たのか。まっすぐに渡って来たのか。
神島の磯に倒れて死んでいた人を見て、旅人が詠んだ歌です。
この歌が詠まれた神島を訪ねてみました。
国道2号線を福山駅前から西へ走り、芦田川に架かる神島橋の上から芦田川西岸に、樹の茂った低い丘が見えてきます。これが神島です。「島」といっても、現在は陸続きの丘になっています。周辺は住宅が立ち並んでいます。
神島の西側から北側へと歩いて島を一周してみました。
「島」の南側に鳥居がありました。ここは神島神社となっています。
鳥居をくぐると、「神島万葉集歌碑」が置かれていました。
伊藤博釋注『萬葉集』八より引用します。
三五九九
月読(つくよみ)の 光を清み 神島(かみしま)の 磯みの浦ゆ 船出す 我れは
(訳)お月さまの光が清らかなので、それを頼りに、神島の岩の多い入江から船出をするのだ、われらは。
この歌は、冒頭で紹介した歌ではなく、万葉集巻第十五に載っているものです。
その先の石段を登っていきました。
その上には社殿が建っていました。境内は全体的に掃除が行き届いていました。地域の氏子のみなさんが大切にされていることが伝わってきました。
この社殿は、大正四年に再建されたと石碑に書かれていました。
社殿の西側はひらけており、市内西部、津之郷、松永方面を望むことができました。
社殿の裏からさらに上へと登っていくと、整備が行き届いた公園がありました。綺麗に清掃され、ベンチや水飲み場があり、周囲には桜の木が植えられ、大切に保護されている様子が伺えました。春には、地域の皆さんがここでお花見を毎年されていることが感じられます。
公園からさらに上へと道が続いていました。
登り切ると頂上には、石鉄神社が祀られていました。先ほどの神島神社とこの石鉄神社はどのような関係にあるのだろうか、あとで調べてみたいと思いました。
石鉄神社にお参りしたのち、帰りは神島神社の社殿の西側から、アスファルト道を下って、島の西側へと辿りました。
神島の西側は道に沿って地肌が露わになっていました。全体は花崗岩でできていることがわかります。地肌を見ていたら、昔、昔、この辺りが海だったことが想像されました。万葉集に詠われた「行路死人」はどのあたりに横たわっていたのでしょうか。
これで神島をぐるりと歩いて一周したことになりました。万葉の時代のことを想像しながらの散策でした。
参考のため、神島に関する著作を以下、いくつか引用しておきます。
中西進著『万葉集』(三)によると、この歌の「神島」は、「笠岡市と福山市と両説がある」そうです。森浩一著『万葉集に歴史を読む』には、福山市の郷土史研究者である村上正名氏による考察が詳しく紹介されており、「福山市」説が強調されています。
森浩一著『萬葉集に歴史を読む」の関連部分を引用しておきます。
(村上正名氏による「神島考」(『万葉集の考古学』)の論文を紹介)
「神島は奈良時代には津之郷ザブ遺跡への船人の目印となるとともに、防波堤の役目も果たしていたのであろう。村上正名氏は長年の調査をふまえたうえ、『奈良時代の磯間の浦が備後国神島の奥(北方)に存在した津之郷の港津であったと確信するようになった」と論文を結んでいる。遣新羅使は通った神島は、このように福山市の草戸千軒遺跡の前身となる港町の前方にあった島とみてよかろう」。
最後に、万葉集巻第十三の神島に関わる歌を、本文と現代語訳、すべて、伊藤博釋注『萬葉集』七より引用させていただきます。
三三三五
玉桙の 道行く人は あしひきの 山行き野行き 直海(ひたうみ)の 川行き渡り 鯨魚(いさな)取り 海道(うみぢ)に出でて 畏(かしこ)きや 神の渡りは 吹く風も のどには吹かず 立つ波も おほには立たず とゐ波の 塞(ささ)ふる道を 誰が心 労(いた)はしとかも 直渡(ただわた)りけむ 直渡りけむ
(訳)
玉桙の旅道を辿る人は、山を行き野を越え、川を渡り海道に乗り出して、恐ろしい神のいます難所も難所、吹く風ものどかには吹かず、立つ波も並には立たず、うねり波の立ちはだかる道、そんな恐ろしい道を、いったい誰の心をいたわしいと思ってまっすぐに渡って来たのか。まっすぐに渡って来たのか。
三三三六
鳥が音の 神島(神島)の海に 高山を 隔てになして 沖つ藻を 枕になし 蛾羽(ひむしは)の 衣(きぬ)だに着ずに 鯨魚取り 海の浜辺にうらもなく 臥したる人は 母父(おもはは)に 愛子(まなご)にかあらむ 若草の 妻かありけむ 思ほしき 言伝(ことつ)てむやと 家問へば 家をも告(の)らず 名を問へど 名だにも告らず 泣く子なす 言(こと)だにとはず 思へども 悲しきものは 世の中にぞある 世の中にぞある
(訳)
鳥の音のかしましというではないが、波のざわめく神島の海に、高い山を壁代わりにし、海の藻を枕代わりにして、蛾の羽の薄い着物もまとわず、この浜辺に何も気にかけずに臥せっている人、この人は、母や父にとっていとしい子なのであろう、かわいい妻もいたのであろう。何かしてほしいことがあったら伝えてあげようかと、家はと尋ねても家も告げず、名はと問うても名さえ明かさず、まるでだだっ子のように返事もしない。ああ、思えば思うほど、悲しくてならぬものは、この人の世である、この人の世である。
反歌
三三三七
母父(おもちち)も 妻も子どもも 高々(たかたか)に 来むと待ちけむ 人の悲しさ
(訳)
母も父も、妻も子どもも、今来るか今来るかと待ち望んでいたにちがいない人なのに、この人のこんな姿が悲しくてならぬ。
三三三八
あしひきの 山道(やまぢ)は行かむ 風吹けば 波の塞(ささ)ふる 海道(うみぢ)は行かじ
(訳)
私は足で行く山道を辿って行こう。風が吹くと波の立ちはだかる海道なんか、行くまい。
或本の歌
備後(きびのみちのしり)の国の神島(かみしま)の浜にして、調使首(つきのおみのおびと)、屍(しかばね)を見て作る歌一首 幷(あは)せて短歌
三三三九
玉桙(たまほこ)の 道に出(い)で立ち あしひきの 野行き 山行き にはたづみ 川行き渡り 鯨魚取り 海道(うみぢ)に出でて 吹く風も おぼには吹かず 立つ波も のどには立たぬ 畏きや 神の渡りの しき波の 寄する浜辺に 高山を 隔てに置きて 浦ぶちを 枕にまきて うらもなく 臥したる君は 母父が 愛子(まなご)にもあるらむ 若草の 妻もあるらむ 家問へど 家道(いへぢ)も言はず 名を問へど 名だにも告(の)らず 誰(た)が言(こと)を 労(いた)はしとかも とゐ波の 畏(かしこ)き海を 直(ただ)渡りけむ
(訳)
旅道に出で立って、野を行き山を行き、川を渡り海道に乗り出して、吹く風も並には吹かず、立つ波ものどかには立たない、恐ろしい神の支配する難所の、立ちしきる波のうち寄せる浜辺に、高い山を壁代わりにし、入江の岸を枕にして、何も気にかけずに臥せっている君、この君は、母や父のいとしい子なのであろう。かわいい妻もいるのであろう。なのに、家を尋ねても家道も言わないし、名を問うても名さえも明かさない。いったい、どなたとの約束を気にして、うねり波の恐ろしい海なのに、そんな所をまっすぐに渡って来たのであろうか。
反歌
三三四〇
母父(おもちち)も 妻も子どもも 高々(たかたか)に 来むと待つらむ 人の悲しさ
(訳)
母も父も、妻も子どもも、今頃もう来るかもう来るかと待ち望んでいるお人であろうに、この人のこんな姿が悲しくてならぬ。
三三四一
家人(いへびと)の 待つらむものを つれもなき 荒磯(ありそ)をまきて 臥せる君かも
(訳)
家の人が今頃しきりに待っているであろうに、縁もゆかりもないこんな荒磯を枕にして臥せっておられる君は、まあ。
三三四二
浦ぶちに 臥(ふ)したる君を 今日今日(けふけふ)と 来むと待つらむ 妻し悲しも
(訳)
入江の岸を枕にしてこうして臥せっている君、そんな君なのに、それとも知らず、今日来るか今日来るかと待ち焦がれているこの人の妻を思うと、やたら悲しくなる。
三三四三
浦波の 来(き)寄(よ)する浜に つれもなく 臥(ふ)したる君が 家道(いへぢ)知らずも
(訳)
浦波のしきりに押し寄せて来る浜辺に、何の思いもなく臥せっている君、その君の家道もわからない。
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