人生の棚卸しをしたらひとつの結論にたどり着いた
パーソナル自己紹介を書き始めたら人生の棚卸しをしたくなった。
めちゃくちゃ長くなるので少しずつ書き足す。
人生の棚卸しをしていたら、これまで常識と思っていたことが全て嘘だと気づいた。
自分にとっての真実とは何か!?
これから誰得やねん!?って自分の人生振り返りを語るけど、生き辛さを感じているあなたにとっての真実が隠されているかも知れないのでザックリでも読んでくれるとめちゃくちゃ嬉しいです!
話の流れはだいたい時系列。
時々大きく横道にそれちゃうw
1.死の淵から生還した誕生日
いきなり「死の淵」とか暗そうに見える話だけど、ここで死んでたらこの記事は1文字も世に出てないので
安心してください、生きてます。
大半の赤ん坊は生まれた瞬間「おぎゃーーーー!」という大きな産声とともに生まれる。
しかし、自分の場合は「ぁぁ」という小さな小さな、誰か聞こえた?となるくらいの声だった。
全身紫色。本来、胎児にとって生命維持装置となるべきへその緒が首に三重に巻き付きチアノーゼを起こしていた。
保育器で30分ほどすごしてやっと産声を上げられた。
もちろん記憶になんてない。すべて親と親戚から伝え聞いた話だけど。
この時の祖父の言葉。
きっとこの世で余程命をかけて何かやりたいことがあるのだろう。
2.普通に呼吸したかった幼少期
2歳半で小児喘息を発症。ハウスダストおよびペット系でアレルギーを起こす体質になった。
薬を飲まずに寝ると朝はすでに呼吸困難?てくらい苦しい。
夜中に咳で起きてしまう。母も寝られんかっただろう。
幼稚園の出席率は60%~70%くらいだったと思う。2週間一度も行けなかったこともあったような気がする。うる覚えだけど。
少し走ったら息切れどころか喘息になり、一度発症すると長時間治らなかった。
この頃の僕が一番欲しかったものは、
普通に呼吸できる肺と気管支
だった。全ての欲しいおもちゃを捧げても良い。願いが叶うなら。そんな風に思っていた。
3.存在を否定され続けた?少年期
相変わらず身体は弱いまま。4年生くらいになった頃からかなりマシになったかな。
小学生になる少し前からバイオリンを始めたが、とにかく練習が嫌いだった。
なぜか?
まず、構え方はこうだ!立ち方はこうしろ。バイオリンの構えというのはひとことで言うと、めちゃくちゃ不自然な格好だ。
日常生活で、木の箱みたいなのを鎖骨の上のせるとか、半端に身体ひねったままにするとか、右腕半分上げたまま、なんてやりませんやん?
変な姿勢で長時間いるのに、「力抜きなさい」って無茶な要求するなよ。
なぜこんな風な構えなのか?とか理由もなく型決めからやらされる感じが幼心に嫌で仕方がなかった。
次に、演奏そのものはそれでも楽しかったが、音程を完璧に合わせないと母親と喧嘩になった。
キーボードやピアノなど、客観的な音程と照合させることをせず(というか、そういうツールが家になかった)親の音感だけで合っているか間違っているかを判定させられる。
苦痛でしょうがなかった。
演奏者が聴いている音と、客観的に、例えば録音などをしたときに聴く音にはズレが生じる場合がある。
そりゃそうだ。演奏者は「聴く」以外に「演奏する」ことにも脳を使っているけど、視聴者は「聴く」ことにしか脳を使っていない。
小さい子供がこの違いを自覚できるか?自分の演奏を第三者目線で冷静になって弾けるか?
できるなら一部の超天才児だ。
その違いをハッキリ認識できるようになったのは10年近く後のこと。
3つ目として、毎日練習しなさい!だ。
練習してもしなくてもどうせ怒られるしぶん殴られるし、だったら辛い練習がない方がマシ。
でも、課題が進まないのも嫌だから、そのくらいはテキトーやっとこう。あと好きな曲が課題の時は気持ちが向くからなんとなく自然と練習する。
そして、すぐできるようになるから次の曲になる。
嫌いな曲は長い時間がかかる。
一般的に言われる曲の難易度は関係なかった。
いや、曲の好き嫌いこそが僕にとっての難易度そのものだった。
親は、やればできるのに!と言う。
この違いが分からなかったんだね。そりゃそうだ。僕もそれを知ってハッキリ言葉にできるようになったのはもっと大人になってからだ。
話変わって
小学校時代、自分の記憶の中で唯一親の承認を勝ち取ったのが中学受験である。
それ以外、親に承認された記憶がほとんどない。
あったのかも知れないが、興味がわいたことも親が価値がないと思えばやらせてもらえなかったどころか鼻で笑われたり下らないと一蹴されたりなど、完全に否定されたという方が圧倒的に大きいし重い。
あれは本物、あれは偽物。
例えば、クラシック音楽が本物でPOPSは偽物、みたいな感覚ね。
親の言う偽物に、興味を持たないように情報そのものすら制限されていたかも知れない。
触れて見なけりゃ本物か偽物かも分からないし、そもそもその基準決めてるのは誰?
親の言う通りでなければ、犬猫以下とののしられ、ぶん殴られ、時には「誰のおかげで生きていられると思っているのか?」と脅され、僕の意思や気持ちの大半は無価値のものとして無視され続けたという思いが強く残っている。
あんたなんか産まなきゃ良かった。
このセリフ何回聞いたかな。
殴られっぱなしもムカつくから反撃したら、親を殴るとは何事か!と10倍返しを食らった。
待てよ、子供殴るんはええんかい!?
今なら言葉と合わせて虐待判定されかねないな。
やりたいことがあるなら先に義務を果たせ。
100%間違っているとは言わないが、もう少しやり方とか伝え方あったんでないか?そもそも小学生にそれ言うか!?
毒親か、厳しい家庭環境か、ギリギリの境界線。これについては専門家ではないのでアウトかセーフか自分で判断できない。
まあ、当時の「人生の成功とは、良い学校行って良い会社入ること」なんて世間の常識になんとか乗せようと親なりの正義と教育方針で色々やってくれていたんだからセーフ?
まあどっちでも良い。アウトと思って恨みに思っても何も進まない。
どう処理するかは自分自身だ。結局は自分で考えて自分で決める以外に道はないのだ。
話がそれたけど、当時、ウザがらみするなら俺の事は放っておいてくれ。俺の人生の邪魔をしないでくれ。
そんな風なことを多分もっと小学生っぽい言葉で毎日思っていた。
そして中学生になり、ひとつだけ良かったことがある。思春期になり身体ができてきたため、中学1年の時は身体の弱かった僕がまさかの奇跡の皆勤賞。
何日も連続して休むことが普通の状態だった僕にとって、片道1時間半の通学という余分な負荷がかかっているのに1年間の皆勤賞は、音楽や勉強で何かを達成する以上の感動があった。
私立でそれなりに進学校だったため、勉強は平均やや下にくらいつくのがやっと。そもそも興味がわかない教科や、割と好きな教科でも興味がないパートは頑張っても全く頭に入らない。
部活は文科系(天文部)のくせに中途ハンパに体育会系の悪い所だけを取り入れている最悪の場所だったので速攻で幽霊部員になった。
通学に片道1時間半というのが、親と離れる時間が増え、体力的にも病気に悩まされる時間が大幅に減ったので小学校時代よりはマシに感じた。
ただ、思春期独特なものなのか、何をやっても面白く思えなかった。贅沢な悩みだ。
そう言えば夜中に親が寝静まったあと、こっそりファミコンで遊んでたっけ。今思い出した(笑)
4.人格が大変革した思春期後半
14~16歳の2年間、父の仕事の関係で渡米。
正直この2年間がなければ自分はどこかで自殺したか、生きていても死んでるような人間になっていただろう。
英語で生きるというのは正直キツかったけど、言語の壁がない音楽、バイオリンに目覚めた。
ど下手だったのが、2年で当時住んでいた州の高校生約500人からのオーディションで40人合格の38番目にまで入るくらいの腕前になった。
ちなみにこの40人のうち20人はプロになっているとかなんとか。うる覚えw
アメリカのなにが良かったか?
承認の世界だったこと
今まで日本では考えられないくらいの承認を学校や音楽関係の先生、友人からひたすら浴び続けた。
good!
Great!
Excellent!
このへんの言葉、1日に何回聞いただろうか?20回?50回?とかそんな単位。
そして承認の世界でもあるが、自己主張の国でもある。
自分でアクション、発言しなければ、だれもサポートしてくれないというのも最初はキツかったが逆にそういう文化だと理解したら、自分にとってはよかった。
やりたいようにやればいいわけだから。すべて自分の行動を自分で作れるのは気持ちよかった。
ひとつだけキツかったこと、英語。聞ける話せるのレベルのことではない。
生まれ育った言語以外を使って生活するというのは潜在的にかなりストレスを感じるということ。
ボディーブローのように効いてくる。
あと、2年の生活で気付いたのが、後付けで学んだ外国語というのは知識とテクニックでしかないってこと。
どういうことかというと、言語表現でめっちゃ大切なことのひとつの感情表現が100%にならないということ。
同じ意味の言葉を発していても、英語には自分の感情が数%しか乗せられない。
「愛している」と「I love you」では重みが100倍くらい変わる。
「ふざけんなク○ボケ」と「F××k you」では言葉で表現できている怒りの熱量が50倍は違う。
逆に言うと、英語が第一言語の人にとって感じる重みは、テクニカルに学んだ言語では直感的に理解が追いつかない、どれだけ使い慣れてもほんの0.01秒とかタイムラグが脳内に発生するってこと。
もしかすると5年とか10年とか過ごすとこの感情の乗り方が増えてタイムラグがなくなるのかも知れないけどね。
2年ぽっちではそこまでは遠く及ばなかった。
人生において人格形成の最終段階、思春期の締めくくりが日本ではなかったこと。
僕がいろんな意味で死なずに済んだ時間でもあり、日本の中だけでは得られない体験を刻み込んだからこそ、後に別の悩みを増やしたとも言える時間。
5.再び暗黒時代に突入した10代後半
16歳~19歳 高校および浪人時代の話。
人生における暗黒期第2章。日本に戻り、大学への受験勉強という渦に強制的に放り込まれる。
幼少時代に親から刷り込まれた情報は本当に根深い。また自分の生命を質に取られ、何の魅力も感じない「大学」というものに行けと命令される。
当時のつまらない人生の延長線上に大学というこれまたつまらないものがあるようにしか感じない。
とは言え、1人で家出して自活できる自信もない。
高校を卒業し、1年くらい自活してみたかったが許されなかった。
生きてるようで死んでいる状態。下手にアメリカンな思考が入り込んでいるせいで、人間関係にも悩みが増える。自分で消化できないのだ。
そして20歳、修行僧のように勉強した
一気に自分自身のモチベーションがひっくり返った。
ある日、Win95からパソコンとネットの時代となる。グローバル化ということで英語が脚光を浴びる時代が到来し始めた。
その教育にいち早く着手に新たな学部を作っていたのが自分が卒業した大学のある学部。
受験科目は英語or数学 と小論文。僕は英語を選択。
ハードルは高い。当時の資料にある合格基準の偏差値は72。ある意味、東大より難しいといわれていた。
母親や親族が全員反対する中、父親だけが「やってみろ」と言ってくれた。
はるか遠く及ばない成績しかとれていないにも関わらずだ。
本当にいくら感謝しても足りない。
そして合格した。
第2志望以下、すべり止めまでその他8つの試験は全敗だったけど(笑)
偏差値という指標が絶対なら全て合格しているはずである。
やり方も常識とは違った。TOEFLという学生用のTOEICでガチの英語を勉強し、小論文も系列の予備校で修練した。
自分で目的を見出し、手段を組み立て、道を切り開いた。経済的には全面親に助けてもらっているが。
心底自分で決めたから、必ず合格できると思っていた。今度は自分で自分の承認を勝ち取った経験である。
ちなみに暗黒時代の方がはるかに「苦労して努力して勉強して」いた。
つまり、努力に対して苦労がある場合、自分は凡人にすらなれないという証明になったことに明確に気付くのはここからさらに10年以上経過してからの話
6.好き勝手生きた4年間
21歳、現役から3年遅れてようやく大学生になった。
あれだけハマったバイオリンも高校時代に1年で嫌になり辞めていたが、アメリカでの体験を期待してサークルはオーケストラと決めていた。
ここでまた思考が飛んでしまうが、自分にはあまりサンクコスト的な感覚がないらしい。これだけお金かけたからもったいないから頑張ろう、とか、めっちゃ長い時間かけて積み上げたから辞めたらもったいない、みたいな感覚がない。
分かりやすい例で言えば、お高いスポーツクラブにお金払ったし元を取らなきゃ、と思いながら通える人の感覚が分からないのだ。
話を戻す。この4年間は本当に好き勝手生きた。
学校は実家から遠かったので、一人暮らし。それだけで楽園。24時間全てが自分の時間。
やりたいことだけ勉強し、バイトし、好きなだけバイオリンを弾いた。
バイトはコンビニに始まり、家庭教師、警備員、飲み屋などなど、あまり続かなかったけど色々経験を経て、1番長くできたのが当時大変革の真っ只中だった携帯電話の販売員。
割と高額な時給でパソコン教室のインストラクター、これは続きそうだったのに主催の会社が倒産してバイト代未払いで逃げられたなんて経験もした。
ネット上のサークルで社会人も多い中、何も考えずに学生の身で参加したりした。普通に学生では経験できない世界があって面白かった。
音楽の話に戻ると、ここが1番苦労した。
そもそも当時の自分は大して上手くなかった。というか、アメリカと日本では音楽、演奏者に求めることがまるで違うことにまた苦しむことになる。
それ以前に、入学直後のあるイベントで上級生の幹部に騙し討ちみたいな卑怯極まりないことをされてキレたことがあったな。
そんな奴がトップとして崇められる集団の音楽は、頭でっかちで理論に固められる割に不相応な曲をスッカスカで、僕からしたらこれが20歳前後の若者が奏でる音楽かよ!?て感じだった。
95%のメンバーには嫌われてたね。
ウケるわ。
他に行くあてもなかったし(探せばあったかもだけど)、なんか知らんけど俺がこのオケを変えてやる!みたいになった。
4ヶ年計画を立てた。まずは自分自身の演奏力をレベルアップして、独学だと限界感じたから、レッスン受けた。
この時の先生が自分にめっちゃ合ってたな。
アドバイスを吸収しやすく、原理的なことを教えてもらえるので自分なりのアレンジがしやすかった。
この辺細かく書くとヤバいくらい長いので、また別の機会に。で、すっ飛ばして4年生の時、コンサートマスター、つまり、運営ではなく音楽のトップになる。コンサートマスター分からない人はググってよろしく。
その時の演奏会をあとでビデオで見て聴いた音は1万円のショボいテレビのスピーカーでもハッキリ分かるくらい、メンバー全員の音の伸びがハンパなかった!
まさにアマチュアオケ、若者の学生オケとはこれだ!多少粗くても良い。音楽することがめっちゃ楽しいんだ!みたいな。
もちろん、最低限のルールはあるし、聴かせるだけの練習は積み上げる。ただ、変な理屈で型にはめ込まれた窮屈な音楽ではない。
楽しさのオーラが爆発している!確かなパワーがあった。
振り返ると運営的に面倒なことは運営スタッフ役に丸投げしてるし、何やったかと言えば、レッスンで習ったこと色んなメンバーに、こういう音出せたらいい感じでない?できるよ!やってみて!ほらできた!すげーじゃん!
ってやってただけなんだけど(笑)
僕が楽しいと心底思えること、やってやろうじゃん!て決めたことは周り巻き込んで多少強引でも良い結果が得られる成功体験のひとつ。
7.間違った常識に飛び込んだ就職
かつての成功パターン、高学歴からの大企業は自分の人生にとって間違いでしかないことが分からずに、氷河期の中、無理矢理就職した。
最も社会を舐めてた若者が、とりあえず何の苦労もなしに内定くれた会社に拾われただけのことなんだけどね。
入社して、新人教育で「社会人としての心得」みたいな研修で、その研修の前後で比較したテストみたいなんがあったんだけど、スコアが当然アップしてたわけ。
周りはみんな、点数上がって喜んでたけど、俺は悪寒が走った。背筋が凍る想いだった。
だって、いつの間にかマインドコントロールされてるんやで?
知らず知らずのうちに社会の常識みたいな大きな渦に飲み込まれていた。
会社にとって都合の良い労働者となるための洗脳教育。恐怖しかなかった。
こんな奴だから、当然マトモに会社ん中で生きていけるわけがない。精神と体力を削り倒した。受験で経験したように、努力した。だが、結果は押して知るべし。
名ばかりの営業部門すら務まらず、窓際部署に拾われたが、待っていたのはパワハラ上司。
メンタル強いつもりでいた自分が、ついに壊れた。
8.結婚するのは常識なのか?
結婚自体は否定しない。僕のように間違った人生を送っていると間違った人を選んだり、選ぶ人は間違ってなくても、結婚生活のやり方を大いに間違う。
9.自分にとっての真実
努力してはいけない。もしくは努力しているという意識がある時間は不幸でしかない。加えて、自分自身に勝手な自己犠牲感が生まれ、他人、特に身近な人にも同様の努力を求めるという害悪すら与える。
幼少期の、バイオリン演奏で、曲の好き嫌いこそが僕にとっての難易度であったこと。
少年期の、中学受験の成功も点数を上げるということにおいてなんだかんだ楽しんでいたこと。
海外時代、好きなだけ音楽ができたこと。好きな曲、楽しい曲、自分で弾きたいと思った曲ばかり選んだ。オーディションの曲ですら、王道でなく好きな難曲を課題曲にした。
大学受験、行きたいと決めた学部、合格するための戦略から全て自分で組み立てた。これも一般常識的な王道の大手予備校に行っていてはできなかったことだった。王道の勉強が必要な学校は全てスベった。
社会人生活の中でも、睡眠障害からの復帰方法、左遷から栄転には王道を歩いていない。
共通するのは、いわゆる一般常識とか王道と言われるもののほとんどが僕に当てはまらないことだということ。王道以外の道で必ず目標や目的達成できると信じて決めていれば、本当に実現すること。
さらに「努力」している時間が多いほど、他人にも努力を求めるようになる。身近な人間であればある程そうなる。やり方を間違うのだ。
他人を変えようとしてしまうのだ。
傲慢さが生まれる。攻め心が育つ。自分と同等でなくとも、少なくとも同じような向きでなければイラついてしまう。
攻めると相手は逃げる。否定する。言い訳する。
傷の舐め合い的なことをさも常識のように振りかざし、大衆迎合で反撃してくる。
超悪循環
自分自身の鬱の悪循環をどこかで断ち切ることができるのなら、この連鎖もどこかで断ち切る必要がある。
そのための人生棚卸し。そして見つけた真実。
僕は「努力してはならない」
こだわってやり込むことにめちゃくちゃエネルギー使うことと、努力をすること、は僕の中では明らかに別物。
自分の価値が何かを掘り下げ、そこを軸として生きて行く。それが今できる時代だ。