見知らぬ土地で
高級と言われた不思議ながらんとした長屋のような社宅で
新婚生活は始まりました。
なんといっても主人は大きな会社に勤めていると聞いていたので
「どうにか大丈夫だろう」と不安な自分に言い聞かせながら日々を過ごしておりました。
そうするうちに「何かおかしい」と流石に私も感じるようになりました。
主人は朝、背広を来て腕時計をはめて出勤したはずなのに
シャツとズボンだけで腕時計もせず帰ってくる日が多いのです。
尋ねると
「ちょっとな、質屋に入れてきた」と悪びれるでもなく答えます。
そのお金でパチンコに通っていたようです。
また飲み屋通いも続いていましたね。
そしてお給料日になってもいっこうにお給料を渡してくれないのです。
「持ってくるの忘れた」とか
「明日持ってくる」とフイッと横を向きながら逃げるようにどこかへ行くのです。
そのうち少しくれるようになったのですが全額ではありませんでした。
夫からろくにお給料をもらえないという姿は
自分の母を見てあり得ることだとどこかで思っていたのでしょう。
どこかでしかたないというような諦めに似た気持ちがありました。
文句を言おうにも全く話にならない主人でした。
どうにか自分の持っていったお金を足して補いながら暮らし
「もうだめだ!和歌山に帰ろう」と思い始めた頃
妊娠がわかりました。
不安がどんどん募っていきました。
そんななか
「こんな人をあてにしていたら子供だってまともに育てられない」と思いつめ
和歌山に戻る決心をしました。
でも父母の顔を見ると「離婚する」とはどうしても言い出せずに帰って来てしまいました。
やはり、まだその頃の田舎では「出戻り娘」というレッテルがとても恐ろしいもののように感じられていたからです。
そして横浜に渋々戻ると
今度は夫が狭心症のような症状を繰り返すようになってしまいました。
やがて仕事に行ったり行かなかったりするようになり
ますます生活が苦しくなっていったのです。
そんな中でもお腹はどんどん大きくなっていき
昭和41年10月20日の朝、川崎の太田病院で長女を出産しました。
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