二人目を授かりました
慣れない土地の暮らしと経済的な不安は抱えながらも
昭和44年二人目の子供を授かりました。
私は出産の2ヶ月前から
実家のある和歌山に戻りました。
自分自身が疲れ果てて早く実家に行きたかったこともありますが
長女が少しでも健康になってたくさんの人の中でも
ニコニコ笑うような子供になってほしいと願ってでもありました。
しかし田舎に帰った長女は
虫や土が苦手で、何を見ても「こわい」「いやだ」ばかりで
私から離れようとせずに泣いてばかりいました。
父母も苦心して世話をしてくれましたが、あまり変わりませんでした。
ただちょうどその時、私の従兄弟が実家に居候して
医大を受験するために受験勉強をしておりました。
その従兄弟が勉強の合間によく遊んでくれて
不思議とその従兄弟と遊んでいるときは
私がいなくても楽しそうに笑ってとても懐いてくれました。
私は実家にいるというだけで安心感があり
全身の力が抜け、この2ヶ月は心底のんびり過ごしました。
友人が務める実家の近くにある総合病院でお産をするつもりでしたので
その準備もして過ごしていました。
そして6月30日に陣痛が始まり
「いざ、病院へ」と思ったのですが
前日から大雨がずっと降り続いており
バスもタクシーも走れないという状況になってしまいました。
母が「道子を呼ぼう」と言って実家に電話をかけました。
道子とは母の妹で助産師をしている叔母でした。
「雨がひどくて病院に行けんから、来てくれんか?」
と叔母に頼んでくれました。
しかし
母の実家からの道も大雨で滝のように水が流れており
すぐに行けないとのこと。
困り果てていましたが、どうやってきてくれたのかわからないのですが
夜中の2時過ぎに叔母がびしょ濡れになりながら、来てくれました。
私は体質的に陣痛が弱いのか
長女の時も陣痛微弱でした。
そしてまた次女の時も途中からお産が止まったような状況になってしまいました。
一生懸命いきむのですが
陣痛が来ないのでうまくいきません。
そこで友人からもらっておいた陣痛促進剤を叔母に打ってもらいました。
そして朝の9時50分に次女が実家の2階で誕生しました。
羊水も空っぽでとにかく大変なお産でした。
次女はよっぽどお腹が空いていたのか
生まれてすぐに自分の親指をちゅーちゅーと吸っていたそうです。
すぐに「砂糖水」を作ってもらいお猪口に2杯も砂糖水を飲んだようです。
4150グラムの大きな赤ちゃんでした。
叔母が泣きながら「こんな大きな赤ちゃん、よく頑張ったね」と
泣きながら褒めてくれ一緒に大泣きしたのを思い出します。
叔母も私もお産の間中
力みすぎて、私は目の周りがパンダのように真っ黒に内出血してしまい
叔母は私に手を握られて両手首がこれまた真っ黒に内出血してしまいました。
すでに叔母も他界してしまいましたが
本当に今でも感謝してもしきれません。
産後、母が食事を作って二階まで運んでくれました。
私もホッとしてとてもお腹が空いていたのでしょう。
あの時のお味噌汁の美味しさは、身にしみて忘れることができません。
その頃より長女はなんとなく落ち着いて
いろいろなことを話したりするようにもなり
大きな声を出して話したり、楽しそうに笑うことが増えていきました。
私の精神状態も周りに助けられて落ち着いており
長女には一滴も飲ませられなかった母乳も溢れるように出ました。
こうして家族4人となりました。