いよいよ看護婦への本当の第一歩
何もわからず、何も知らず、毎日手術の後片付けの洗濯ばかりしていた私に、やっと本当の看護婦への道標が現れました。
「日赤の看護学校を受けなさい、そして夜はここにアルバイトに来て学費にしなさい」
と、その病院の榎本婦長さんが言ってくださいました。
何十年たった今でもお顔もお名前も忘れはしません。
私の大恩人だと思っています。
また、榎本婦長さんが別の病院の婦人科のアルバイトも紹介してくださいました。
そしてやっと和歌山日赤の看護学校に入学できました。
新たに寮生活が始まりました。
部屋は4人部屋。消灯は9時。
昼間は看護の勉強をし、夜はアルバイトに行き、帰って寝るという繰り返しの生活でした。
そんな今思えばヘトヘトになるような毎日でしたが
「看護婦になれるんだ!」と言う嬉しさしかなく
「疲れた」とか「辛い」と感じたことは一度もありませんでした。
その頃の日赤の婦長さんというのは
戦争に行ってこられた野戦看護婦さんたちがほとんどでした。
「万が一」の時に自分の身を誇りを守って自決するために
いつでも口に含めるよう胸ポケットに青酸カリを持って働いていたと聞きました。
あの看護婦さんのナース服の左胸にあるポケットは
もともとそんな戦場看護婦が青酸カリを入れるためにあったのだそうです。
今はみなさん、可愛らしいボールペンなどをポケットにさされていて、
きっと想像もつかないことでしょうね。
そんな婦長さんたちが常に厳しく仰ったのは
「看護婦は医者の手伝いではありません。注射をしたり処置をするのは医者の仕事です。看護婦は患者の心に手を添えるのです。患者の心にいつも寄り添いなさい」ということでした。
また
「座った患者さんの顔色と言葉、医者の言葉をきちんと聞きなさい。これが看護婦の仕事です。注射や器械取りはその上での仕事」とも教えられました。
お医者さんの前では患者さんは聞きたいことの10分の1も聞けないものですよね。
「それを察して、患者さんが納得するように患者と医者の橋渡しをしなさい」ということです。
「患者の心に手を添える」
私の看護の基本は今でも
ここにあります。
82歳になった今でも、私の心の灯火となってこの言葉が燃えています。
こんなお話、今の若い看護婦さんたちにはどう聞こえるでしょうか?
すっかり若い方達にご面倒をおかけする年齢の身になっても
やはりこの看護の精神をどうにか伝えたいと願ってしまう私です。
ではまたね
キミちゃんより
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