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私の30年前の1.17

#記憶を記録する
地方紙(業界紙)の新聞記者としての社会人1年目。
デスクワークの先輩の業務の代打の初日でした。
ワンオペで、ある業界の各地から来る競り値の中から、
必要なものを選び入力し、紙面を作る、という作業です。
判断力とスピードと経験値がモノをいう仕事で、
全てがないままの初代打。
とにかく地道に行くしかないと、午前5時過ぎにデスクに。
先輩たちがやって来るのは早くても午前9時。
4時間前でも不安な代打。
仕事を始めた直後に、共同通信の音声で震災の速報が流れました。
テレビをつけて唖然。
続報が続き、不安の中数時間。
午前8時には先輩たちが事務所にやって来て、
関東や関西と連絡を取り始めました。
どんどん状況が分かってきて、
競り値どころではなくなりつつありました。
神戸の様子をとにかく入れる、で紙面構成は一新。
私の作業はギリギリまで範囲が決まらなくなりました。
どのくらいのスペースがあるのか?
どの競り値が重要なのか?
データを入れつつ、先輩たちの最終決定を待ちました。
神戸の様子、近辺の水産会社の状況、分かるものはすべて入れた結果、
その日の競り値はほぼ掲載無しとなりました。

1.17、あの日のあの時間。
100人程度の出入りのある広い空間で一人の夜明け前からの数時間、
怖かった。
今でも共同通信の事実だけ淡々と伝える音声の冷たさを覚えています。
私一人だけ取り残されたような感じでした。
そして、テレビ画面を通して見た映像は凄まじかった。

弟の幼稚園・小学校・中学校・高校までの同級生が犠牲になりました。
くそ真面目な優しい少年で、神戸の大学に通っていました。
その日の前日に仲間の下宿であった新年会に出て、
仲間はそのまま会場となった部屋で寝込んだのに、
彼は自身の下宿に戻り、戻った下宿が倒壊して圧死だったとのこと。
寝込んだ仲間は無事だったそうです。

職場の地元紙を作る部署では、現地取材班が編成されました。
選ばれた女性記者の先輩に、
女性社員で出し合ったお金で生理用品を買い込んで運んでもらいました。
帰ってきた先輩から聞いた現地の過酷な状況、
特に女性ならではの問題の話は、その後の災害で聞き及ぶものと同じです。

趣味(だった)の野球観戦で知り合った女性が神戸市役所で働いていました。
当時はまだメアドも携帯も一般に普及していない時代です。
震災後も仲間同士で連絡を取り合っていました。
休みが取れない、辛い、とのことでした。
ある時から何度手紙を出してもなしのつぶて。
住所や勤務先を訪ねた人も居ますが、不明のままです。

あれから30年なんです。
全く縁のなさそうな地域に住む私にすら、衝撃のあった震災です。
災害が起こるのはやむを得ないとしても、
人災は皆無とまではいかなくても、軽減できるはずです。
そのために何をしないといけないのか。
一人一人にできる減災活動はないのか。
今年も、考えます。




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