パラレルコレクションで"可能性"を提示されるということのグロテスクさについて。
パラレルコレクション、通常パラコレ。
アイドルたちのあるかもしれない将来の姿、ifの世界を切り取ったシリーズ。
283プロのアイドルたちには、色々な可能性があり、我々はそれを無限に考えることができる。
妄想することができる。
何故なら、私たちにとって見えているのは「今この瞬間を生きているアイドルたち」だからである。
しかし、パラコレでは公式から将来の姿を提示される。
ifと銘打っているものの、それは公式から提供される"事実"のひとつとなってしまう。
オタクがどれだけ妄想していてもそれはオタクの戯言に過ぎないが、公式が提示した"if"は一種の答えになり得るのだ。
それは全てのオタクの共通認識となるからだ。
例えば、薬指に指輪がはめられているカードが実装されたとする。
なんだそれは。
そんなの認めないぞ。
アイドルたるもの、恋愛なんて絶対に許さない。
それは当然のことである。
アイドルでなくなった後ならどうこう言う筋合いはないが、自分の推しのそんな姿は見たくない。
本来なら見る必要も、考える必要すらなかったはずなのに、どうしてもそれを考えざるを得なくなってしまう。
それがパラレルだからとかどうとかは関係ない。
その可能性を生み出しただけでアウトなのだ。
知らなくていい、考えなくていい姿を強制的に想像させられる。
これをグロテスクと言わずになんと言おうか。
オタクが勝手に言っているわけではなく、起こりうる未来のひとつして確定してしまうのだ。
見たくない。
俺以外の男が冬優子と一緒にいるところなんて想像したくもない。
もっと言えば俺すら隣にいなくていい、冬優子がアイドルでいるところをずっと見ていたいのだ。
それがアイドルという偶像に求めている姿。
アイドルという偶像があるべき永遠。
それを公式が崩しに来ている。
可能性という言葉で片付けられないグロテスクさ。
それを秘めているシリーズである。
283プロダクションがどういう方向性を目指しているにしろ、常にアイドルが偶像として輝く方向を向いていてほしい。
これはオタクのエゴだろうか。
偶像をただ崇拝していたい、一途に好きでいたいだけというのは我儘だろうか。
………。ふふっ、好き放題書いてくれちゃって。まあ、わからなくもないけどね」
俺「冬優子?何読んでいるんだ?」
冬優子「しょうもない記事よ。昔のやつ」
俺「ん?…ああ、これか」
冬優子「荒れたなーって、思い出して」
俺「ははっ、確かになあ…あの時は大変だった」
冬優子「よく言うわよ、企画した張本人の癖に」
俺「それを言われると弱いなあ…」
冬優子「でも、あの時想像したいくつもの未来よりも、今が一番幸せ。これだけは断言できる」
俺「…理由を聞いてもいいか?」
冬優子「…ふゆに言わせる気?」
俺「おっ、その一人称久々に聞いたな」
冬優子「茶化さないで。…でも、そうね。思い出に浸って、つい昔に戻ったような気持ちになったかも。あの頃も楽しかったけど、今はその何倍も楽しいわ。
……あんたのおかげよ、プロデューサー」
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俺と冬優子のパラコレ