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「A+B→→Cになるまで」
またやってしまった。
起き上がると時刻は午後1時50分だった。慌てて時間割を確認すると、今は体育の授業中だ。私は再び、授業をさぼってしまった。
起き出したばかりの布団が散らばる教室で、たったひとり取り残されている。
今ごろみんなは校庭だろう。これから走って行ったとして、授業は残り30分しかない。行くか、行かないかと逡巡した。しかも次の5限目は苦手な数学だ。今から少しだけ、数学の予習をしておこうかな、と考える。でもそうしたとこで、もう理解できるような内容ではないのが事実だった。
数字も数式も全てが私を置いてどんどん先へ進んで行ってしまっていた。授業中は身体がそこにあるだけで、「どうか当たりませんように」と小さく呪文のように繰り返している有様だ。
私は自分がパジャマなのに気がついて、とりあえず着替えるために自宅へと戻った。
階段を上がって私の部屋の扉を開けると、パンクロックな出立ちの兄ちゃんが寛いでいた。何だか懐かしいような感じはするものの、見知った者ではない。
「あなたは誰?」タンスの中から数枚のワンピースを引っ張り出しながら尋ねた。パンクな兄ちゃんはタバコをふかしながら、「着るならそれがいいんじゃない?」と赤いノースリーブのワンピースを指差した。
私は話せる相手だ、と少しだけほっとして言った。
「学校、また授業に遅れちゃったの。もう本当に嫌になる」
彼は「そだよね」と優しく頷くと、脚を机の上に放り出し、ヘッドホンをつけて首を上下に振り始めた。
私は隣の部屋に駆け込み、赤いワンピースのチャックを急いで上げながら思った。「こんな生活がどこまで続いていくのだろう」と。
テストで合格点を取って、結果が校内に掲示されて、おめでとうと祝福されて卒業を迎える。
けれども安堵するのは一瞬で、いつの間にか新しい学校生活が始まっていく。しかも今回は女子校だった。
それほど浸透できない女の子たちと、適当な会話をして、「うち、そこだからもし良かったら今度遊びにおいでよ」なんて言ったりする。
数人は来てくれるけど、みんなパラパラと雑誌を捲ったり、ドーナツを食べたりしてライトに時は流れていく。ううん、ライトに時間を流しているって言った方が正しい。
そんなに嫌ならもう学校なんか行かなきゃいいのに、って声も出てきそうだけど、私にそれを選ぶ権利はあるのだろうか、といつも現実の世界で悩んでいた。
優等生以外、学校なんてさほど楽しくないんじゃない?とふと思う。そこにハマれる人はどんどん輝いていけばいい。でもハマれない人は苦笑いして時を流すか、放課後のスナック菓子を生き甲斐とするか、誰かと恋に落ちて悶えるか嫌いになるか、フラれた人と何度も顔を合わせたりして気まずいとか、とにかく落ち着ける場所はあまりないように思う。昔はあんなに大好きだった人も、天使みたいな子たちもたくさんいたのにな、とノスタルジーが始まっていく。
でも幸いなことに、この学校の中で好きな授業はあった。「融合物理」の科目だ。
試験管やシャーレが並ぶ薄暗い教室の中で、木製の長テーブルに2人組を作って座る。先生からランダムに「物質」が配られるのだが、今回は何が来るのだろうと、この時が一番わくわくする。
昨日私たちに渡されたものは、〈焼きすぎて固くなったホッケの切り身と、ソフトボールサイズのアメジスト〉の2つだった。全くバラバラの世界に存在しているような物質だ。これを切り刻んだり、接着剤をつけたりしない形で、一つの物体として融合する。しかも意味のある物に仕上げなくてはならない、というのが課題だった。一旦全てを元素に分解してから融合する方法もあるが、最も美しくて驚くのは意識を使って再構築をするやり方だった。
A+B、これがうまく行かない場合は、目的の中間地点を変えてみる。Cに到達する前のCダッシュを一旦作ってから、最後に仕上げていく方法だ。
私たちのグループは議論を重ねて、意識を擦り合わせて、最終的に手のひらサイズの飛行船を作り上げた。ホッケの身のベージュカラーと、皮の濃淡あるグレーが美しいコントラストを描いて、アメジストに反重力を持たせたので、机の上から15センチほど浮いた所で回っている。
先生は私たちの机へ近寄ってくると、「実にグレートだ」と褒めてくれた。
この最終形に達するまでに6時間半もかかったが、あまり話したことのなかった彼女と協力して、一つのものを作り上げられたのはとても嬉しかった。
私たちは他の生徒たちの作品も見守った。
前のチームは、空中に浮かぶカラフルな螺旋のチューブだった。そのお菓子のようなチューブが浮かぶ空間では、インターネットも宇宙への電話も自由に使い放題出来るらしい。
別のチームは、酵素合成フィルムを身体に貼り付けるタイプの翻訳機だった。これさえあれば、身体の中にチップを埋め込む必要はもうない。
こうして数時間前にはなく別の意味を持っていたものが、今では目の前に煌めきを持って出現している。私はその光景に何度も励まされる。だからこそ、こんな無限のような証明できない日々も、なんとかやっていけるのだと思う。
全ての授業が終わる頃には、もうすっかり夜も更けている。
ロウソクだけが灯る賑やかな食堂で、満腹の食事を終えて部屋を出ようとすると、赤いカーペットはいつものように言った。
『2970000000000000000000000000個の水素原子、
1150000000000000000000000000個の酸素原子、
570000000000000000000000000個の炭素原子、
55000000000000000000000000個の窒素原子、
10700000000000000000000000個のリン原子、
10600000000000000000000000個のカルシウム原子、
1870000000000000000000000個のイオウ原子、
1860000000000000000000000個のナトリウム原子、
1530000000000000000000000個のカリウム原子、
1140000000000000000000000個の塩素原子、
334000000000000000000000個のマグネシウム原子、
274000000000000000000000個のケイ素原子、
58600000000000000000000個のフッ素原子、
32200000000000000000000個の鉄原子、
15000000000000000000000個の亜鉛原子を測定しました。今日も健康です』
こうして原子体重計の数値が記録されていく。私の毎日はこんな感じだ。
もうこれ以上、逃げ出すようなことはしたくないと思いながら、願いながら、いつかの旅立ちを夢見て過ごしていく。この学校が、私の人生の何と融合していくのかは今は分からない。けれどもいつか輝くCになることを信じて、ただ光っていくだけだ。
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