虎穴に入らるんば虎子を得ず
我が家には発売当初?くらい初期モデルのルンバが稼働しており、これが結構活躍中。
お掃除は勿論のこと、大人の事情により、ネタにしないとやってけないくらい殺伐とした我が家の雰囲気を和らげるクッションとしても一役買っている。
ルンバのメリットといえば、掃除時間の転用だと思う。が、他事に使ってしまうのがもったいないくらい、ルンバを眺めている時間は癒しでもあるし面白い。
最新のルンバがどうかわからないが、我が家のルンバは、お前大丈夫か?(泣)と感情移入してしまうくらい、闘牛の如しガンガン壁や物にぶつかっていく。(所有者は共感してもらるはず?)
その甲斐もあり、自分ではやり過ごしそうな架台の下にも果敢に潜り込み、ごみをゲットしてくる。まさに、虎穴に入らルンバごみを得ず。
分かりたくても、分けられない。
違う、僕はこんなダジャレを言いたいんじゃない。
頭にいくつもたんこぶを作って駆け回り、しまいには、オレの歩んできた道は間違いじゃなかったと言わんばかりの誇らしげな顔で充電ポートへ帰っていく。そんなルンバの姿を見ていると、人間とロボットの将来を見ている気がする。
ルンバを見ていて一番強く感じることで、同時に怖いと感じること、それは
お前大丈夫?と思うくらい不可解なことをしているロボット、そこに身を委ねている自分がいること。
我が家のルンバが学習しているとは思えないが、今のAI技術があればゴミが溜まりやすい所や動線を中心に掃除することは容易かと。というか既に今ルンバはあるはず。
家掃除くらいであれば間取りも部屋環境も把握しているので問題ないが、僕たちは今、未知の広範囲から収集された膨大なデータによって導き出された結論を享受している。中には何となく意図が分かるものもあるが、更にデータが増えたら。完全に分解不可能となり、僕の理解の範疇を超えてくるもので溢れかえるかと。
データの奴隷?
こわいのは、データを信じて、納得できない不可解なものを選択をしてしまうこと。
極端な例えをあげると、愛するパートナーが生死を彷徨う手術を受けることとなり、2つの方法からあなたが選択をする。1つは、膨大なデータから導かれた、成功確率60%だが気持ちの悪い不可解な手術。もう1つは、確率40%だが納得できる手術。成功したら良いが、失敗して死んだときどっちが悔しいか?20%でも確率が高いほうを選べばよかったと思うか、消化不良のまま決断したことを悔やむか。
たまに宗教なんて非科学的なものは信じない、定量的で客観的なデータしか信じないという話を聞くが、もはやデータはごく一部の天才以外理解できない訳のわからないもので、訳のわからないものを信じているそれ自体、宗教の神を信じていることと同じことでは?
営みのハンドリング
素人風をビュンビュン吹かさせてもらうと、データ活用で大事なことは、データを無機質なものと捉えず、そこにある営みを感じること。データは、営みを手でコロコロさせられるものに変えたもの。
食べログも単に平均3.5以上あるから美味しい店だと思ったら大間違いで、その3.5は投稿者の営みの積み重なりであること。庶民的で懐かしい美味しさを求めているのに、もし投稿者全員が結婚記念日に来ていたら全くあてにならない3.5である可能性が高い。
よく、夜遅くまで点灯しているビルの明かりを残業の光と揶揄し、ネガティブに捉えている。今月の残業の光が先月より20%アップした、そのデータだけを見たら単純に不幸も20%アップしていると推測するかもしれない。が、その残業の光すべてが、上司と部下の感動的な物語や、素晴らしいアイデアが生まれる瞬間のようなポジティブなものだったら。同じ20%アップでも幸福の20%アップだ。そしてそのデータがあり、次さらに10%アップしたら。そのデータを見て、みんな頑張ってる、自分もがんばろと思えるかもしれない。
のび太とドラえもん
データやロボット側は、常に正しい提案をするのでなく、人間が忘れかけていた・諦めかけていた選択肢をかき集め、背中を押してあげる。人間側は、データを自分自身の営みの結果として捉え、愛情をもって寄り添う。これが思いつく限り両者の最善の関係なのかと。
人間が、より人間らしさを追求するとき、ロボットが支えになる。そんな未来がくるといいな、むしろその未来を迎えに行かなきゃと、かわいいルンバちゃんを愛でながら思いました。