幼年期の終わり?日本人は自立できるか?
最近Cowpersを教えてもらった。
正確には名前を知っていたけど、自分とは関係のないジャンルだと思って聴いた事がなく今まで生きてきた。
だから、自分にとってCowpersは現代の音楽と同列の未知の音楽である。
それで聴いたら、あまりのカッコ良さに衝撃を受けた。
この衝撃、やっぱり現代の音楽にはないんだよな…。
Cowpersのことはよくわかっていないんだけど、当時のオルタナティブなロックやエモの延長にあったと思われるんだけど、日本独特の情緒感と奇怪さがあって個性的だと思った。
「こんなロックがあったのか!?」と思うと同時に「白人には作れないな」とも思った。
最近、ミックスの検証をしようとDaitroのYを聴いていたんだけど、このアルバムの曲に歌メロがある曲があるんだけど、その歌メロは独特でスペインの土着的なメロディーなんだろうな、と思った。
このメロディーはViva Belgradoにもある。
それを、日本人である俺が素朴に良いなと思う、という事が意味することとは?
裏を返せば日本の土着的なメロディーも外国人は良いと思うに違いないということである。
俺は何年も前から「20年後に邦ロックが外国人に発見される」って言ってるんだけど、それはそういう意味である。
だから、邦ロック化したエモというのは馬鹿にできない。
なんなら邦ロック自体も馬鹿にできなくて、いわばUKロック的な立ち位置なのである。
激情ハードコア/skramzが邦ロック化しようがそれは悪い事ではない、むしろ誇るべきである。
何が言いたいのかというと、我々日本人はCowpersの良さも邦ロックの良さもその良さを正しく認識できないということである。
3LAで村上隆の動画が紹介されていた。
村上隆曰く、現在、日本はトレンドの最前線に位置していてルールブックを作れる状態であると言っていた。
そして、それを日本人自身が認識できていない、と。
これはよくわかる話だなーと思った。
日本人というのは絶対的な価値観を「お上」に預ける傾向があると思う。
たぶん、昔はそれを天皇が担っていたと思うんだけど、今は「外国人」。
例えばノーベル賞があるけど、あんなもの外国人が作った賞で何の意味もない。
でも、あれを絶対的な基準として有り難がっている。
これを音楽に例えると、来日公演とその前座。
日本人にとって大物来日アーティストの前座をすることは光栄なことであって、箔付となる。
Turnstileがフジロックのトリで盛り上がった事を一つの到達点としてみんなありがたがってるけど、あれ外国人で日本人じゃないんだよ?と思う。
何故、ハードコアファンはあれを自分達の手柄のように喜ぶのか、俺にはわからない。
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