私は私の情緒がわからないまま
大人になってまで、えーーんえーーんと絵に描いたように大泣きするとは思っていなかった。
そして子どもの頃と明らかに違うのは、なんで自分が泣いているのか、大抵の場合はっきりしないことだ。いや、一周まわって同じなのかもしれない。ただ、今の自分の在り方がしっくりこないせいで、何かが居心地悪く、私の柔らかいところを蝕んでいく。そういう時、このままじゃ良くないということだけが直感されて、削られていって、でもどうしようもなく、私は眠りにつくために泣く。泣いたらすっきりして、それで終わることは分かっているから。
そう、とても限界な時には、眠ることができない。
久しぶりに私は、眠れない夜を過ごして自分にいらいらしていた。
これくらいでいっぱいいっぱいになる私じゃないのに。体力もキャパも心の余裕も人一倍あるはずなのに、って過信していた。
「転職して引っ越ししたらもう己を構成するものほぼ変わってるもんね」怒涛な日々と、その波に乗り切れない自分を嘆いていたら友人が言った。変わりすぎて、もう自分が、自分の情緒が迷子になっていた気がする。いや、迷子というか、蓋をしていた。情緒なんて邪魔だもんね、何かを最短距離でやり遂げようとしている時は。
前の私だったらどうやってたんだっけ、同じように対処したところで、違う位置にいたら違う結果になるに決まっているのに。前のようにやることもできなくて、今のやり方のチューニングなんてまるで間に合わなくて。だから私は泣いてたんだ。
頑張ったよね、よく頑張ったね、よしよし。自分で気付いて労えるまでになったらもうほぼほぼ回復してる。
なんか心の調子と身体の失調は本当に、よくデキてるなと思う。すごいアラート機能。スーパーで食べたいものがちゃんと見つかったなら、安心して買って帰ろう。まだ言葉にしたくないことはしなくていい。今日は自転車じゃなくて、歩いて行こうっていう気分になったら、ちゃんと従えるように。こっちがいい、というどっちでもいいことに対する自由と直感を、もっともっと。それが私の要で、セルフケアみたい。
帰りたいと思ったらいつでも帰りたいところに帰れるんだよ。
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