世界の数について
昨晩noteを書いたばかりの気がするが、今日も午前中からnoteを書いている。普段は夜noteを書くのだが、今日は都道府県対抗女子駅伝を見てから、私にnote100日連続更新をそそのかした友人と、1週間分のnoteのテーマを考えるためにブレストをして、その後どこかで時空の歪んでいる陸上?駅伝?界隈の友人たちと新年会という名の人生を語る会をするため、夜に書く時間が取れないのだ。100日連続更新を始めてから、ずっとnoteのことばかり考えているような気がするが、一向に書く速度は上がらないし、テーマも思いつかないし、まるで報われない片想いをしているようだ。
全然違う話をしてしまった。
私はエッセイを読むのが好きだ。書き手の方が、どんな人生を歩んできて、どんな生活を送って、どんなときにどんな考え方をして、どんな感じ方をするのかといった、ものすごくパーソナルなところが垣間見えるような気がするからだ。一応断っておくと、私はストーカーでもないし、変質者でもない。ただ、私以外の人の見ている、その人にしか見えない世界が気になるのだ。その土地の文化や歴史、生活等を感じるために世界各地を巡る人がいるが、きっとそれと同じような感覚だろう。
どんなに願ったとしても、頑張ってたとしても、人は、他の人の人生を生きることはできないし(自分がどんな道を歩むかは変えることができると思うが)、その人の視点からしか物事を見ることができない。意識して他の人の感覚で物事を捉えようとしても、完全にその人自身のバイアスを除くことは困難だ。
だからこそ、ひとが生きている、見ている世界を、生活がストレートに感じられて、私の知らない世界を見せてくれるエッセイが好きなのだ(その人の感覚をそのままばちこーん!と伝えられる作家さんの表現力、描写力にはシャッポを脱がずにはいられない)。
人の数は、世界の数だと思う。本当に似通った双子であっても、どこか違うものを見て、感じる瞬間はあるはずだし、些細な違いの積み重ねがその人だけの世界を作っていくと思うから。いつだって私が想像する以上に、きっと世界は広くて、複雑なのだ。
今日の時空の歪んだ人生を語る会では、いったいどんな世界と出合えるだろう。エッセイを通じて、会ったことのない人の世界を知ることができるのはとても素敵なことだが、もし直接会えるのであれば、やはり同じ時間を過ごして、世界を共有するための話をしたい。今日友人と、友人の世界を知るために話をする時間は、とてもきらきらしく、果てしなく幸せな時間となるに違いない。