発達障害はギフテッドだという誤認と幻想

ギフテッドという言葉が独り歩きしだして結構な年数が立つと思うが、これほど一部の人にしか当てはまらない言葉はないと思っている。
発達障害なんですよ、これこれこういった感じで…と人に話すと、結構な確率で『それはいいですね!きっとすごい才能があるじゃないですか?芸術とか数学とか』と言われる。
それは、世の中のニュースが、ギフテッドで溢れてるからだと思う。
発達障害者は社会生活にものすごく困っているから発達障害であり、ギフテッドと呼ばれる人たちも、ある限定的な分野で突出した才能があるわけなんだけど、社会生活に困るのは同じで、才能があっても決して生きやすくなるわけではない。けれどもだ。
ほとんどの発達障害者は、突出した才能というものがない、ということを声を大にして言いたい。すごく言われるのが『じゃあ、絵が上手いでしょ』『音楽的才能あるでしょ』まあ、この二つかな。あとは『数学ができるとか?』
そして、こちらから、何らかの超人的な才能があるんだという話しが出るのを、期待の表情でみな、待つのだ。
期待を裏切るようで申し訳ないのだが、そんな特殊能力はない。そして勝手に期待されて勝手に申し訳ない気分になっていることに、親はとても傷つくのだ。
焦りさえするのだ
みんなの言うように、何らかのすごい才能が隠れていて、それを見つけられないのは私のせい?もっと何でもやらせるべき?動かない子を引きずってでもどこかのスクールはしごすべき??ってなるのだ。
だいたい、ASDの子なんて、親がつれていきたい時に習い事とか連れていけるなんて確約できないからね。ADHDも併発してたら、何曜日の何時に決まって習い事とかできないからね。そんなことしてたら逃走するからね。
うちの子は視覚情報の処理力が弱いので、絵を描くことも大して出来ないし、たくさんの数字が並んでいるのを判別することも出来ない。Aピアノ習ってはいるけど努力っていう概念すらないからね。練習しないとうまくならないっていうプロセスの想像ができないから、こつこつやる作業はことごとく失敗の連続で、それで自己肯定感落ちまくりだからね。

ASD、ADHD、LD、全部持ちの我が子は、普通の子になりかった、普通の生活を送って、普通に回りのこどもたちと過ごしたかったって強く思ってるからね。それさえも叶わないからね。日本では。
これからなにか特別な才能が花開くかもっていう期待を一番持ってるのは親だよ。そりゃそうよ。でもね、世の中の他のうまくいってる一部の人をして皆同じ天才なんて論調で来るのやめてほしいわけよ。焦るし。

励ましと思っとるんかもだから、よけい言えんわな。善意だと思っとるからね。向こうは。

定型発達と、非定型発達は
住む世界がほんとうに違う
まるで外国、違う銀河。
非定型発達だけのコミュニティがあればなぁ…


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