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地下の庭、ケイの秘密(抜粋3)

                    ( Dieter G 様 画像提供)
皆様、お元気でお過ごしでしょうか?
私は「低カリウム血症」で夏バテ状態だったのですが、
治療を受けて何とか普通に暮らしています。

さて、引き続き、私の小説『音庭に咲く蝉々』を断片的に
ご紹介しております。
今回は天才ギタリスト時原敬一(ケイ)が謎の地下室へ
もぐりこんでいくシーンです。


2m2e1h1t 様 画像提供

 中庭のほぼ中央に、竹藪に包み込まれた格好で、蔵と呼ぶには小さすぎる石造りの小屋が建てられていた。小屋の横には、一見して高い技量の仏師が作ったと思われる仏像が祀られている。右ひざを立てた座像で、煌びやかな宝冠を被り、六本ある腕の一本が宝珠を手にしている。
「ケイ、この仏様は何………………?」
「如意輪観音だよ。天界道に迷う者を救うらしい。華道家の守り神のようなもの」
 ケイ自身は仏像のことなど興味がないらしく、合掌も省いて小屋へ向かう。古びて塗料の剥げ落ちた木戸を開け、長身のケイが頭を屈めながら中に入ると、黙って蝋燭に火をつけた。そして、小屋の奥へ進んでいった。揺れる蝋燭の炎に照らされた、地下へ沈む石段が見えた。
 
「ケイ、ここは貯蔵庫か何かに見えるけど」
「大昔は貯蔵庫だったらしい。この辺りはとにかく石材が豊富だから、農家では蔵の下に石室を設けることも珍しくなかった。石夢野っていう地名も石に由来しているんだと思うよ。味噌とか糠床の保存には都合が良かったんだろうね。でも、うちの場合は、俺の曾祖父にあたる華人・時原鏡月の時代に大改造が行われて、この地下の庭ができあがったというわけさ。立派な経蔵を造りたかったらしい。山門を手掛けた宮大工の鮎川大吉っていう人に、地下の桃源郷建設を依頼したんだ」ケイの声が石室の壁に反響して、ぶわぶわと複雑にエコーが重なる。
 ケイは手探りで室内照明のスイッチをONにする。光度は乏しく、まだ室内の様子を把握しきれない。 
 
「宮大工の鮎川…。ヴァーミリオンの苗字も鮎川だけど、ひょっとして親戚かな」ただの思いつきで僕が言ってみた。
「鮎川大吉はヴァーミリオンの曾祖父だよ」
「え?」
 地下室は驚くほど涼気に満ちていた。寒気を感じるほどだった。ひんやりと首に巻きつく冷気に体熱が奪われ、瞬く間に汗が退いていくのがわかる。蝋燭の炎が揺れるために、部屋の全体像がつかめない。
 僕はケイの判断を待った。暗い石室に、ケイの下駄の音だけが響く。ケイは感覚的に石室の隅にある燭台を捜し当て、次々と火を移していく。そのたびに明るさが増していった。数本の蝋燭の炎が、ぼんやりと煙るように室内を照らしはじめた。
 
 そして僕は今まで見たことがなかった光景を見ることになった。
 
 
 次の瞬間、僕は喉の奥で噴射する絶叫をかろうじて飲み込んだ。
石室の中央に土壇が設けられている。そこには円形の魔方陣があり、色砂で描かれた壮麗な図像が浮かんで見えた。それは正方形と円形と三角形を幾何学的に組み合わせた曼荼羅アートのようなものだった。
「これは?」図像の美しさに圧倒されながら、僕はケイに質問した。
「タントラの修業に使うんだよ。密教儀式の謎めいた装置だね」ケイは淡々と答える。
 時間とともに、地下の暗さに目が慣れて来た。
 壁面には何か得体の知れない巨大なレリーフが彫り込まれている。それも一面だけではない。一、二、三…、合わせて六面。石室は高度な幾何学を駆使した緻密な構造で、正六角形を成している。おそらく二十畳以上の広さはあるだろう。それぞれの壁面に複雑な意匠のレリーフが刻まれて、あるいは魔術的な絵図が掛けられていた。一見、古代中国か古代インドの神話を想起させるが………………。

「これが朱雀」ケイは壁画をひとつひとつ説明してくれた。火の鳥をイメージさせる朱雀の、飛翔しかけた翼の躍動感が伝わってくる。
「これが玄武…、その隣が白虎、そして青竜」亀に蛇が巻き付いた玄武、口を開けて構える白虎、曲線が激しくうねる青竜。古代中国の守護神獣四神がまるで生き物のように鮮明に描かれていた。ただし、方位学に対応したものではなく、装飾として六面のうち二面を彫り上げたにすぎない、とケイは説明した。
 
 ケイは次の一面を説明し始めた。激しく渦巻く火炎。縄文土器のデザインを彷彿とさせる原始的な模様の中に、乱れ髪が溶け合い、豊満な全裸体をさらけ出す女性、その恍惚果実に絡みつくのは男根が獣化した奇怪な蛇神。今まさにここから神話が始まろうとする、根源的な熱気が煮えたぎっている。 
 そして、その横に見える壁面には、寒々とした枯れ草の風景に横たわる女性の遺体、頭部から蚕が生まれ、両眼に稲が生え、耳から粟、鼻から小豆、陰部に麦、尻に大豆がそれぞれ力強く芽を吹きだし、天に向かって伸びようとしている。これは古事記の五穀起源を語った神話であり、スサノヲノ命に殺されたオホゲツヒメ神が穀物に転生する場面が、あたかも現実の出来事のように生々しく表現されている。
 
 残りの壁面には、密教の両界曼荼羅の絵図が掛けられていた。金剛界曼荼羅、胎蔵界曼荼羅。それらの額縁には夥しい数の梵字が刻まれている。梵我一如という揮毫も見えた。さらに、その壁面の余白には美しい樹々や花々や鳥や蝶の姿が繊細な筆致で描きこまれていた。
 僕は言葉を失ったまま壁画の前に棒立ちになっていた。地上の時間から切り離された、極めて異質な時空が石室に花開いていた。竹藪の世界と石室の世界は全く違っていた。それは、奇妙な快感を伴う倒錯の境地だった。しかし沈黙が長引くと、六面の異界に吸い込まれそうになる。何か喋った方がいいと直感が騒いだ。
 
「これを全部ヴァーミリオンの先祖が彫ったり描いたりしたの?」
「そうだよ、ほとんどが鮎川大吉の作品。曼荼羅の絵図は京都の高僧から譲り受けたものだけど、あとはほとんど鮎川大吉の作。道教・神道・仏教・密教の世界に精通した腕の良い宮大工だったと聞くからね。これだけの作品を残しながら県民百科に人名も載っていないんだから不思議だよ。無名無冠の天才。もしこれを公表すれば国宝扱いなんだろうけどね」
「ケイ、先刻、地下の庭って言ったよね。でも、庭って言うより美術館みたいな感じがする…、それでも庭?」
「フジ、ところで庭って何だと思う?」
「え? 庭? 庭は… 家の前にある空間じゃないの?」
「俺はね、理想郷の具現だと思うよ」
 
 石室に入ったときから気づいていたが、傍らに極めて立派な石の蓮華台が置かれていた。室内の照明と周辺の蝋燭から集まる光は乏しく、目が慣れるまで蓮華台の様子が把握できなかった。しかし、今は見える。小白猿の彫像だろうか。猫よりもひとまわり小さな、白猿らしき動物が置かれている。何気なく近寄って、僕がそれに触れようとしたとき、ケイが小さく叫んで制した。
「それには触れない方がいい」
「これも彫刻だよね?」
「いや違う。それは生きてる」切羽詰まった細切れな下駄の音で、ケイの気持ちの揺れが伝わってくる。
「生きてる? 生きてるって…、ここで飼ってるわけ?」
「白猿だよ、白猿」明らかにケイの声がうわずっている。何か嫌な予感を孕んだ不自然な声。
 
 微動だにせず、小白猿は深く瞼を閉じていた。
 まるで蓮華台の上で瞑想しているかのような超越的な姿。よく見ると、顔の皮膚は年老いた象を思わせるほど鉱物化し、全身は痩せこけてミイラ化していた。まったく動く気配を見せない。ただ蓮華台の上に座ってじっとしている。
 
「何歳なの?」僕の声は弱々しく震えていた。
「何歳かな…、正確には判らないけど、たぶん2500歳くらいだろうね。もともとインドの高僧が飼っていた白猿なんだけど、妙に賢いところがあって珍重されたらしい。高僧から高僧へ手渡される形で、中国、そして日本へとやって来た…」
「嘘だろ、ケイ」僕は怖くなって思わず口を挟んだ。
「嘘かもしれないな、文献もないことだし」

                           つづく

『音庭に咲く蝉々』菊地夏林人
https://bccks.jp/bcck/174781/info 


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