ケイの部屋 本文(抜粋2)
皆様、いつもお立ち寄りいただき、ありがとうございます。
前回の投稿に引き続き、小説『音庭に咲く蝉々』の断片を
ご紹介したいと思います。
主人公フジは天才ギタリスト時原敬一(ケイ)の部屋へ
導かれ、少しずつ神秘の世界へ足を踏み入れます。
和館を通り抜け、板張りの渡り廊下を進んでいくと、緑豊かな中庭と美しい洋館が見えた。中庭は長いあいだ放置された竹藪で、夏の陽射しを遮り、藪の奥に陰鬱な冷気を蓄えていた。竹藪越しに見える洋館は程よく変色した赤レンガの建物で、壁面に濃緑色の蔦が繁茂している。屋根に丸窓が黒く光る八角形のドームがあり、細部に刻み込まれた装飾は山奥の古寺には不釣合に思えるほど豪華絢爛だった。
僕はいよいよケイの隠棲部屋へと案内された。
洋館へ入ると、さきほどの和館とは印象が異なる趣が感じられた。
洋館の内部は廃校じみた気配が漂い、古めかしい扉で閉じられた部屋が幾つも続いていた。
廊下の中程まで進んだところにケイの部屋があった。赤黒い天鵞絨の絨毯が敷かれた書斎で、大きな本棚には百科事典や密教文献、音楽専門書の類がぎっしりと詰め込まれていた。特有の雰囲気に押し潰された僕は、しばらくのあいだ言葉を失ったまま棒立ちになった。
いかにも重厚な感じの高級椅子に座るよう勧められたが、自分の存在がちっぽけに思われて何となく尻が落ち着かない。深みのある茶系で統一された本棚やテーブルが醸し出す落ち着いた印象と、まるでそれを無視するかのごとく無造作に置かれた世界の民族楽器が不自然に同居していた。
間近に迫った学園祭の打ち合わせのつもりで来たというのに、僕の話など全く耳に届いていない様子で、あらゆる俗世間の決まりごとなど歯牙にもかけず、ケイはいきなりひとつの民族楽器を奏ではじめた。初めからケイの心の中に彼独自の心象風景が広がっていたようにも思われた。唐突であるにもかかわらず、あまりにも美しい旋律の洪水。その切れ味のよい音の響きで、彼の心象風景がよく判った。
インドのシタール、モンゴルの馬頭琴、ロシアのバラライカ、中国の胡弓、インドネシアの青銅打楽器、ギリシアの古弦楽器、南米のケーナ、アフリカのマリンバと親指ピアノ、日本の尺八、篠笛、笙、五絃琵琶、琴…、その他にケイ自身が作ったという人の背丈ほどもある奇怪な一弦の楽器、柱時計を改造した時報楽器まで、彼は惜し気もなく次々とソロ演奏を披露してくれた。時折、十二種類の風鈴を並べた楽器が、微風を受けて自然に鳴り響いてくるのが、また一段と心地好い雰囲気を醸してくれた。
ケイに奏でられた楽器たちは、ひとつの例外もなく命を吹き込まれて宝石のように輝いた。ケイの指先には土着の神々が宿り、あるときは弁才天が、あるときはオルペウスが、天から舞い降りて奇跡を起こした。
僕は瞼を深く沈めて、耳だけを澄まし、神がかった演奏に身をゆだねた。
旋律の波が打ち寄せるたびに、官能の高まりや沈静の脈がオーロラとなって耳を包む。時間の地層が割れ、古代の聖域が開かれると、樹海を走り抜ける神々の化身が感じられた。
瑠璃色の泉に接吻する無垢な獣は、風の音に耳を傾ける。不意に湖の底から浮き上がる神魚の群れ。霧のように漂い流れては散っていく精霊。木洩れ陽に暖められ雨に愛撫されながら発芽する種子。月光を浴びて静かに花弁を開く巨大な白花は、草の絨毯に泳いで森と交わる…。
『空蝉幻舞曲』と名付けられたケイのオリジナル楽曲には、特別に古い国宝級の琵琶が用いられた。ケイの説明が正しければ、正倉院宝物の螺鈿紫壇五絃琵琶を製作した技術者が密かに隠し持っていた、同格の逸品であるらしい。素晴らしく枯れた弦の音が、耳の奥の洞窟を夢心地に満たしていく。
彼の演奏を聴いていると、世俗の垢が洗い流されていくのがわかる。社会的な約束ごとに縛られて縄目の付いた精神が、ゆるやかに解放され飛翔していく。
つづく