【エッセイ】ダンディズム(1000)
最も幸せを感じる瞬間は子らに「お父さん」と呼ばれた時だ。
気分が絶頂の時も沈んでいる時も変わらない。
「お父さん」と子に呼んで貰うためには、当然ながら父親でなければならない。
それはとても大きな負担である。実際は負担ではないのだが言葉にすると「負担」という言い方が最も近い。または「義務」という言葉でもいいかもしれない。
大きく分けてふたつの負担がある。
①精神的負担
②物質的負担
精神的負担は子らの危機や岐路に直面した時に心配しなければならないことだ。
直近ではふたりの娘がそれぞれ受験生であることが一例である。長女はつい最近進路が決まった。次女は未だで、高校入試は来年の3月。私が心配したところで何にもならないが。心配だ。
また、大怪我をしたり大病を患ったり人間関係に傷ついたりする様を見るのが苦しい。そして生命である以上いつ死ぬかもわからない。そんなことを考えなければならないのは辛い。私たちは死産と流産でこの世に生を受ける前のふたりの子たちを失っている。あんなに胸をえぐられる経験は他にない。
しかし、報われるのだ。たった一言、娘たちから「お父さん」という呼びかけで。
さて、物質的負担は経済的負担である。これも大きい。子さえいなければ、どれだけの余裕が今あるのだろう。大学までいけば衣食住等の全てを含めてだが平均2000万円と言われている。実感としてその通りだ。
つい最近まで長女の学費をどうしようかと真剣に悩んでいた。短大とはいえ私立の美大。ロシア連邦がGoogleに対して科した罰金2澗ルーブルに比べればみじんこほどだが、我が家としてはかなりの金額だ。そして、私が無計画過ぎて貯蓄が全くなかったのだ。
しかし、主は実に不思議な方法で私たちを助けてくださった。こんな不信仰な私に。心の底から主に感謝したのだった。
このままではいい記事なので、私のものらしくふざけて〆よう。
これを書こうと思ったきっかけは、iPhoneで音楽を聴こうと「EarPods」を見た時だ。
「AirPods」を使っていたのだが、長女に盗られてしまった。貸すと言う約束であったのにいつのまにか娘のものになってしまっていた。
代わりに娘の「EarPods」を仕方なしに使っているのだった。
先日も返還を要求したが、問題はパレスチナ領土問題やウクライナ戦争や北方領土問題くらいにこじれてしまい聞き入れられなかった。
これも「お父さん」の一言を聞くための宿命か。