【エッセイ】酔っ払いの戯言(900)
少し前まで立ち飲みというものは何か得体が知れず、楽しめるのか?という思いがあり43年生きて一度も行ったことがなかったが。
ここ1か月ほどの間に赤垣屋(大阪の立ち飲みチェーン)に二回通っている。
今日が二度目だが。
一人で黙ってお酒を飲むのはなかなか風情があっていい。
こうやってnoteを書き殴りながら揚げ物ばかりのつまみと生ビールだけを飲んでいる。
さて。酔った頭でどこまで思考ができるのか試してみよう。
人はなぜ飲酒という非生産的・非合理的・不健康的な手段に身を委ねるのだろうか?
答えは多分出ないだろうが、私は「生を実感するため」ではないかと思うのだ。
予測可能なことしか起きないことを要求される世の中に不条理の風を吹かせているのだと思う。
たとえば。定規なしに直線を書かなければならないとしよう。
フリーハンドで書くと「必ず」線は歪む。
その歪みが失敗でありストレスだ。
しかし。何度も何度も直線を書く試みをしていたら。その内に真っ直ぐな線を引けるようになるだろう。
直線を書けるようになれば人生イージーモードだろう。
しかし。直線という最短ルートで果たしていいのだろうか?
それって生きているということになるのだろうか?
我々は誰しもできるだけリスクを避ける傾向にある。
最短距離を目指したい。なるべく無駄なことをしたくない。失敗はできない。
幼い時からそうやって育てられてきた。仕方ない。
しかし、実際には予測不可能なことだらけ。天気にはじまり、志望通りにならない進路、就職先・・・。
真っ直ぐに澱みなく線を引ける人はほんの一握りであり、稀なのだ。
我々は惑う。レストランのメニューに始まり、友だちから配偶者まで。惑いに惑うのだ。
しかし惑うことはそれこそ「罪だ」とされる。それは残念ながら私が信仰する「キリスト教」の「誤った」認識によるのだが。
私は正直に思う。
別に惑って命を落としたところでハッキリ言ってどうでもいいし、それはそれでいいだろう。
ただ。
死ぬことより遥かに恐ろしいことがある。
それは。
自分の頭で考えないことだと思う。
考えた末に死ぬ方が、考えずに永遠に生きるよりずっといい。遥かにいい。
以上、酔っ払いの戯言でしたぁ。
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