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老いを感じる時【エッセイ】一〇〇〇字
仏教では生理三大欲求(特に性欲)を克服することを解脱という。
キリスト教とイスラム教では生理三大欲求(特に性欲)を罪と説く。
いずれにせよ、世界三大宗教は生理三大欲求(特に性欲)を忌避する傾向にある。
道徳=宗教規範。
ということで全世界の倫理観の根底には大脳辺縁系が司るこれらの生きるために絶対必要な欲求を抑え込もうという動きがある。
大食い番組を不適切だと断罪し放送できなくしたり、寝て過ごすことは怠惰で負け犬のすることだと決めつけたり、不倫した人物を社会的に抹殺しようとしたり、愚かな大衆は正義の名の下にそういうことに躍起だ。
しかし、生きるためには生理三大欲求を満たすことを放棄することはできない。宗教家たち(というか教祖たち)はこの矛盾をどうやって解消してきたのか。見ていくとなかなか興味深い。
ここでは食に絞って考察したい(性欲についてまた今度)。
仏教の場合。シッダールタは餓死スレスレまでの無茶な断食修行の末、菩提樹に寄りかかり瞑想中にスジャータが差し出した乳粥を食した際に悟りを開いたとされる。これは食は最低限必要だという暗示だと勝手に解釈している。
キリスト教の場合。イエスもシッダールタばりの無茶な断食(40日間と聖書に記されている)をして悪魔の誘惑を受ける。その時はじめに食の誘惑を受ける。腹減ってんなら石をパンに変えてみなというのだ。そこでのイエスの悪魔撃退の言葉が示唆に富んでいる。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」[マタイの福音書 4:4]とおっしゃって悪魔を論破する。余談だがこの時イエスは性の誘惑を受けていないように見える。もしかしたら悪魔が世界中の栄華を見せた誘惑が性の誘惑の一部かもしれない。きっとそうだ。
イスラム教は知らん。
私もそろそろ「神の口から出る一つ一つのことば」を主食にしはじめなければと思うのだ。
なぜなら、老いを感じるからだ。年甲斐もなく「餃子の王将」で餃子3人前と天津飯大盛を食べた翌日は胃がムカムカする。馴染みのラーメン屋「たみん」のラーメンを食べた翌日も胃がムカつきほとんどご飯が食べられなかった。
このエッセイにたみんのラーメンの写真が載っている。
これはあくまで私の感想だが。人は老いると食欲も睡眠欲も性欲も生理三大欲求全て衰えて小さくなっていく。心理学の祖、フロイトは全ての精神エネルギーの源は性欲と定義した。あながち間違っていないと思う。未だに理解されず批判されているらしいが。
老いれば勝手に解脱に近づき、罪から離れられるのだ。老いることも悪くない。