【エッセイ】価値の源泉(1800)
どんなに周りからいいよ素晴らしいよと言われてもみんなが評価していても自分には何も刺さらないものがある。
たとえば森岡毅さんの「苦しかったときの話をしよう」というビジネス書。Twitterだか何だかで「倒産寸前のUSJを立て直したあの敏腕社長の本!」という紹介を目にして2年前に購入し最初の数ページでわざとらしく表面的な記述にウンザリして積んでいた本である。
森岡さんはすごい人のようだが言語化はとても下手で文章はとても読みづらい。誰かに書かせたらよかったのに。
言語化が下手だからこそ経営者として成功したのだろう。そんな人の本を読む意味は果たして本当に成功したいビジネスマンにはあるのだろうか。なぜなら誰かが成功した手法はうんこに群がるハエと同じように必ず多くの人が参入する。コロナ禍で流行り夏の雨上がりのきのこのように乱立した唐揚げ専門店のように。あっという間にレッドオーシャンになる。
もしあなたが彼みたいになりたいなら。彼の本を読んでも残念ながら絶対なれない。なぜなら曖昧な指示を出して会社なりテーマパークなりを大きくするのに長けた詐欺師と等しい能力が要求される(失礼)経営者として力を発揮した人だからである。
最近、節約に励んでおり要らないものはメルカリで売っている。1650円の本が1200円に設定して2分以内に売れた。どうやら1500円くらいでも売れていた可能性がある。悔しい。
しかし確信した。本当に成功したいなら森岡さんの本を読んで真似をすべきではないということを。むしろ邪魔だ。
ただ本の使い方は無限大である。別に全ての人が本に書いてあることを実践するためだけに読んでいるわけではない(買った人が生涯の本として出会ってくれたらいいな)。
そこが最も重要だ。
「本はこう読まなければ意味がない」とか「何万冊も本を読んだから私はすごい」とかいう人がよくいる。断言するが違う。マララさんが有名な演説で語ったように一冊の本で本当に世界が変わったりするからだ。要はどれだけ精神を揺り動かされるかが問題なのだ。本はそれが起きやすい媒体というだけである。
読書数が意味のないのは自明すぎる。1ページに二、三行しか書かれていないのに立派な本のように見せかけているある宗教団体の残念な本がある。どことは言わないが立ち読みで少しページをめくって不覚にも笑ってしまった。炎上商法のクソどもが書いた本は内容もきっとクソだから、そんなものをたとえ1万冊読んで実践しても頭が1万個のクソな考えで悪影響を受けるだけだ。それなら吉野家の牛丼をそのクソな本を買うはずだった金で買って食べた方が何億倍も幸せで意味がある。
これが私のハッピーサイエンス♪(ギク(*´꒳`*))
スポーツでも同じようなことが見られる。
サッカーの中田英寿選手。彼は極度の偏食家でお菓子しか食べないこともあるらしい。
何かのバラエティ番組で俳優の陣内孝則さんが家族で中田選手と会った時のエピソードトークを披露していた。
奥さんがこどもが何かスポーツをしていて(確かサッカーだったような)栄養管理にめちゃ気をつけてますって中田に嬉々として語ったら「そんなんだからダメなんですよ」と一蹴され激怒し「じゃああんた何食べてんのよ!」と詰めるも「お菓子とか」って軽くあしらわれ「あんたサッカー選手でしょ!」とか言いながら説教をはじめたそうだ。滑稽な話だが子を思う親としては怒る理由もわからなくもないが中田に向かってそんなことを言うのは釈迦に説法もいいところである。
お分かりだと思うが、スポーツにしても知性を磨くにしてもそれぞれの適正があるのだ。
宮沢賢治のように石と語れる人だっている。
中田や宮沢はもちろん特殊な才能を持つ天才たちだが、ひとりひとりにも大小は関係なく同じように特殊な才能は与えられているのだ。それは役割のようなものである。
みんながサッカーうまくても会話ができない人とか石としか話をしない人だけでは社会は回らないし嫌だ。誰にだって役割がある。お互いに尊重し合うことが最も大事だ。
幸いなのは自分の特性を見極めること。自分に合った方法を自分で見つけられる人は見つけられる。より多くの人に聞いた方が早く的確に見つかる可能性が高いというだけで必ず見つけられるわけではない。
自分にとって合う方法で最適解を見つけ出したいものである。
僕はやっぱり。エロかな(● ˃̶͈̀ロ˂̶͈́)੭ꠥ⁾⁾