「人それぞれ」を言い訳に使うな
昔から、「人それぞれ」っていう言葉があんまし好きじゃなかった。
なんか、それを言えば、相手は黙るだろうというか、議論を終えたいが為に言っているように見受けられた。
あと、「人それぞれ」と言えば、何でも許されるみたいな意味合いも感じ取れて違和感があった。
この記事のきっかけ
コチラ(https://onl.tw/6aGUN2p)で有難いことにコメントを頂きました。
日本の教育について個人的に色々と思うところはありますけど…
個人的には、「日本の教育の失敗」という文を見て思い浮かんだのは、
日本の森のようちえんの人達にドイツの森の幼稚園のことを伝えた時に、
「文化が違うからね~」
とか
「日本には日本のやり方がある」
とか言われて一蹴された時のことです。
そりゃあ、そんな奴らだから、日本の教育は改善することなく、衰退するだけだろうと思いました。こんな奴らと一緒にやってもうまくいかないだろうと直感しました。
だからこそ、日本に見切りをつけた節があります。自分はドイツでやっていこうと決意しました。
何が嫌だったのか
何と言うか、「取り入れよう」っていう気持ちが全く無いことが如実に表れているのが上記の発言じゃないですか。
「文化の違い」や「日本流のやり方」に固執して、”良いやり方”を一蹴しやがったんです。
100歩譲って、一蹴しやがったことはコチラが許したとしても、なんで相手が自分のやり方に拘るのかが全く持って意味不明なんですよね。
森の幼稚園におけるドイツと日本の状況を例えるのであれば、
サッカーにおけるブラジルと日本ですよ。
早い話が、ドイツは森の幼稚園の本場という事です。
森の幼稚園の数や国の制度については、事実としてドイツの方が優れているし、
教育の質については、個人的な体験からの感想ですが、ドイツの森の幼稚園に軍配が上がると考えています。
日本よりドイツの方が優れているにもかかわらず、ドイツの情報を一蹴できるその根性が気に食わないのです。
「文化の違い」や「保守的な態度」を隠れ蓑に使って、自分自身を省みないその態度が、先生としていかがなものなのかと思ったのです。
コチラとしては、日本とドイツが同じ環境ではないことは百も承知で、ドイツの情報を伝えました。でも、受取側には「ドイツと同じことは出来ないけど、この部分だったら真似することはできるかな」みたいな態度が一切無く、一蹴されたことに腹が立つのです。
「2+2=4」ではない人達
ここに1つの風刺画があります☟
下のドイツ語の和訳は、
社会が真実から離れれば離れる程、その真実を言う人を社会は嫌う。
ジョージ・オーウェル
です。
別にこの画像を用いて、「自分が真実だ(『2+2=4』を掲げている)」と言いたいわけではありません。
自分が言いたいのは、「2+2=5」とか「2+2=7」とかの奴らが、
「文化が違う」とか「日本には日本のやり方がある」とかっていう、
いわゆる、「人それぞれ論」を使って、現状の自分を擁護しているのが、
あまりにも情けなさ過ぎて、哀れで、見苦しくて、滑稽で、ふざけるなと思ってしまうということです。
自由の権利は認めるけども…
もちろん、人が何を考えようが、どう行動しようかは”自由”ですので、奴らが、
「2+2=5」
と主張することは構いません。
ただ、「自由の上に胡坐をかいて、間違ったことをし続けるんじゃねえよ!」と言ってやりたいのです。
それを言うと奴らは決まって、
「どう答えようが自由だ。どういう答えを導き出すかは、その人その人で違う。『2+2』の答えが『5』でも、『7』でも、『3.5』でも良いじゃないか!『人それぞれ』なんだから!」
ってほざきだす。
自分が間違っているかもという自省の心が無いと、こうも自由をはき違えて、馬鹿になれるのかと、その様を見て本当に虫唾が走る。
「人それぞれ」を言い訳にするなよ!?
色んな答えがあろうと、間違ってるものは間違ってるし、正しいものは正しいのである。
それをこともあろうか、間違ってる者が声高々に主張し、「人それぞれ」という論理から、さも自分にも正当性を与えられると慢心しているその恥知らずな傲慢な態度に辟易するのである。
プロとしての意識の問題だと思う…
もちろん、これまでの話は、自分一人で楽しむ個人の趣味に関しては、全く関係ないことであることは、言及しなくても分かることである。
その人がどういうことをして自分の時間を享受しようが、その人の自由である。音楽を聴いたり、スポーツをしたり、本を読んだり…まさに「人それぞれ」である。
自分が言いたいのは、仕事という、プロの立場に立ってする行為について、それが改善する可能性があるにもかかわらず、ただただ一蹴してしまう「2+2=5」の奴らに対してである。
以下の記事の、「個人的愚痴」という部分で奴らについて言及してます☟笑
自由論が極まれば、「プロであろうが、なんであろうが、その人の自由は誰にも犯せないのだから、『2+2=5』を掲げ続けるのはアリなのである」になっちゃうんだろうけど…
自分の選択
自分としては、プロの立場でいるのであれば、なるべく「2+2=4」であろうと努力する人間でありたいと思っているので、
極論を言ってしまえば、「2+2=5」の奴らはどうでもいいのです。
自分が「2+2=4」を追求できる所に行けば良い話だし、現実にこうしてドイツに来れている。
「2+2=5」の奴らを思って悩むよりも、目の前のドイツの子ども達のことを考える方がよっぽど有意義です。
昔は「日本で自分の森の幼稚園を作りたいな」と思っていたけど、今は全くそんな気はありません。ドイツにいた方がストレスを感じないのは目に見えてる。
薄情だけど、日本の教育については諦めてるし、今回のコロナ騒動で、より一層強い絶望に変わった。
なので、「日本の教育」について考える機会は昔と比べてほとんどなくなった。
そんな状況において、コメントにて、不意に「日本の教育の失敗」という文を読んで、日本の教育についてあーだこーだ言っていた昔の自分を思い出して懐かしくなったし、けれど今の自分は日本の為に何かしようなんて一切思ってないんだよなという一抹の寂しさを覚えたのです。
ただのノスタルジーです…笑
最後にもう一度…
正しさを追求する姿勢が大事なんだと個人的には思う。これに反論する奴は、「人によって何を正しいかと思うのは違うんだから、『人それぞれ』で良いんだ」と言いそうだが、それは断じて違う。
「2+2=4」は絶対的で普遍的で安定的なモノではなく、移り変わっていくという不安定な形で実在し、それ故に、「こうである」と決めつけて、「人それぞれ」だからといって、違う意見を排除するのがおかしいという事である。
「2+2=4」に辿り着く過程が「人それぞれ」なだけである。「2+2=4」に向かう道中で、自ら歩みを止めて安定化しようとする行為を自己正当化する為に、「人それぞれ」と一蹴する行為は断じて正しくない。
その行為はただただ、衰退を招くだけである。そんな奴らに良い未来は作れない。
(ここまで読み返して思ったのは、ヘーゲルのアウフヘーベン的な考えが大事って自分は考えていることかな…
下の画像で、
「2+2=5」の奴等が「正」にいるとして、コッチがドイツの森の幼稚園のことについて話すのが「反」の行為。で、奴らは「人それぞれ」という言葉を使って、「反」を”無”にしてしまう。それが良くないでしょって話。
「人それぞれ」で片づけないで、「反」を受け入れて、「合」を作り出せよ!って話。
しかも、プロとしてやってんだから、優れているところ(ドイツの森の幼稚園)から何かを取り入れるのはやってしかるべき行為でしょ!って話。)
おまけ①:ポイントのズレた教員免許の話
書いてて思い出したのは、大学生の頃に研究室で何人かと話をしていて、コッチが、
「教員免許を取得しても、先生としての実力が伴ってなかったり、挙句の果てには事件を起こしたりする先生がいるから、教員免許ってそこまで信用できるもんじゃないよね。」
って言ったら、
「そういう人たちは極一部で、ほとんどの人達はちゃんと先生をやってます!」
って急に怒りだして、そのまま部屋を出て行った奴のこと。
いやいやいや、教員免許を持ってる人がちゃんと先生をやるのが当たり前なんですけど???問題は、教員免許を持っているのにも関わらずちゃんとできてない先生であって、その対策を考えなければならないのに、なんでちゃんとできてる先生のことを言及するだけで終わりにしてんの?当たり前のことを言ったところで、当たり前のことを当たり前に出来ていないという問題は解決しないのだが?
出て行ったヒステリー女の、見当はずれの思考回路が未だに理解できん…笑
おまけ②:感染対策の為のマスク着用は「2+2=7」
あと、今回のコロナ騒動に関して、twitterを見ていると、
コロナが5類に下げられて段々と規制が緩和していき、マスクを外す人が多くなってきた今日この頃に、
未だにコロナをビビっていて、
「マスクを着ける自由を!」
ってほざく奴らがいて、開いた口が塞がらない。
そいつらは、コロナ茶番が盛り上がっていた時は、
少数派のマスクを着けない人に対して、「マスクを着けろ!」と他人の自由に土足で踏み込んできたうえに、社会的に入店禁止や移動の自由を奪わっていきやがったくせして、いざ立場が逆転して自分が少数派になると、自分の自由を主張する、多数派じゃないと強くなれないただのご都合主義弱虫である。
100歩譲って、マスクを着ける自由は認めてやるが、着けるなら馬鹿にされるのは覚悟して頂きたい。この期に及んでマスクを着けて、「コロナ対策だ!」とほざくのは、「2+2=7」と掲げる行為である。
「あいつ、2+2=7って思ってるんだ…馬鹿だな…」と言わない方が無理な話である。
「マスクはコロナの感染対策になる!」なんていう妄想をエビデンスピラミッド外に位置するただの一般人が垂れ流したところで、
エビデンスピラミッドの頂点に君臨する研究方法で、最も評価の高い世界五大医学雑誌の一つである「ランセット」が導き出した結論が、
「マスク着用の効果が決定的ではない」であることによって、一蹴されるのは当然である。
「マスクを着けようが着けまいが意味は無かった」が「2+2=4」であり、
「マスクを着けることがコロナ対策になる」は「2+2=7」なのである。
それなのに、厚顔無恥の奴らは、「マスクを着ける自由を!」なんてほざきだすのである。何様なんだって話である。
「他人の自由を制限」し、「マスクは感染対策になる」と妄想を垂れ流してきた奴らに、己の自由をどうこう言う資格は無い!(権利はあるけど…笑)
〈追記〉
彼らは物事を噛み砕いて理解する力を持たないし、そうしたものを一切養ってこなかった。だから、少しでも固い食物が供給されるとそれは彼らにとっては例外なく「まずいもの」なわけである。自分の顎の力が一切なくなっているという事には気が付かない、また自分の舌とか顎とかもまた、修練によって養っていく事ができるというのも知らないし、知りたくもない。そこで彼らは常にあらゆる毒性を取り除かれた乳児用の食物しか受け付けない。
このような彼らが、自分達を正当化する為の理論は「人それぞれ」「誰にも好き嫌いはある」というもので、例え赤ん坊が母親の乳しか吸わなくても、それもまた「個性」であり「権利」であると主張する。理性も知性も養ってこず、ただ自分達に都合の良いものだけを良いとする人々にあらゆる業界は迎合し、彼らに餌をやる母鳥のごときものとなった。こうして彼らはいつまでも独立できず、自分の目でものを見る事ができない。
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