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保育士の凄さを表現した「神」と「天使」の物語(?)


今日がPiA-Ausbildungの座学で本格的な授業の始まりだった。

一番最初ということで、授業の内容としてまずは、保育士として必要な資質などについて話し合った。

その授業の導入で、先生がこの話を朗読されたのである。


朗読を聞いている時は、「神様と天使がなんかやってるな…」っていう感じで、具体的な所までは理解できなかった。

だけど、文章を読むことによって、この物語が伝えたいことを自分なりには理解することが出来た。

自分がドイツ語の文章を日本語に訳して、以下に掲載します。なるべく、読みやすいような和訳になるように心がけたつもりです。


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保育士を創造した時のお話

Hans Wenke著

Erna Bombeckさんの「神様がお母さんを創造した時」という作品をベースにしています。)

神様が保育士を創造し始めて6日目、残業をしながらも神様は創造を続けていた。そこに天使が現れて、言った。「神様、これを創造するのに、かなり時間がかかってますね。」

神様は言った。『この保育士の”オーダー”に書かれた無理難題を見たか?この保育士というのは、手入れはしやすいけど、プラスチックで創ってはいけない。しかも、160個も可動部分があるにもかかわらず、ワイヤーロープみたいに頑丈な神経が張り巡らされてないといけない。膝の上には10人の子ども達が同時に座れるのだけれども、一方で子ども用の椅子にも座れなければならない。全てを背負えるほどの大きな背中を持ちながらも、かがんだ状態で生きていくことが出来るようでなければならない。そして、この保育士がする声掛けは、打ち傷から精神的苦痛といったありとあらゆるものを癒さないといけないし、6本の手を持っていなければならないのだ。』

それを聞いた天使は頭を横に振って言いました。「6本の手…そんなのありえっこないよ!」

神様は言います。『6本の手を創造するのは私にとって大したことではないんだ。だけど、この保育士は3つの両目をつけなければならないんだ。』

「それって、保育士のスタンダードなモデルなの?」と天使は尋ねます。

神様は頷いて続けます。『1つ目の両目は、鍵のかかったドアをじっと見ていて、子ども達が何をしようとしているかは既に知っているけども、”あんた達、そこで何してんの?”っていう視線を送るんだ。2つ目の両目は頭の後ろについているんだ。それを使うことで、保育士に死角が無くなって、何でもお見通しさ。そして、当然のことだが、顔にはちゃんと両目がついている。その両目で摩訶不思議な行動をする子どもを捉えると、保育士は目だけで、”あなたのことを理解してるし、あなたのことが大好きよ”ってことを伝えるんだ。』

それを聞いた天使は、神様の袖を引っ張りながら言った。「神様…!もう寝て下さいよ!残りは明日やればいいじゃないですか!」

『そうはいかないんだ。』と神様は言った。『なぜなら、もうちょっとで私にある程度似たモノが創造出来そうなんだ。私が創造したモノは、病気になったとしても自分で治すことが出来る。30人の子ども達に小さな誕生日ケーキを提供できる。6歳の子に、食事前に手を洗うように促すことが出来る。3歳の子に、お金は食べ物じゃないということを理解させたり、足は蹴る為ではなく歩く為にあるものだと伝えたりできる。』

天使は創造物の保育士の周りをゆっくりと歩いて、「柔らかすぎるよ」とため息を漏らした。神様は『でも、タフなんだよ』と力強く言い返した。

『この保育士がこれまで言ったことの全てを成し遂げられるって、信じてないだろ?』と神様は天使を疑った。

天使は「この保育士は考えることは出来るの?」と質問した。『考えるだけじゃなくて、判断したり、折衷案を結んだり、そして、忘れたりすることも出来るよ!』と神様は言った。

天使は前屈みになって、指で保育士の頬をさすった。「何か漏れてるよ!」と天使は言った。「だから言っただろ、何でも詰め込み過ぎるからこうなるんだよ!」と天使は続けた。

『それは涙だ』と神は言った。「どうして涙を流してるんだよ?」と天使は尋ねた。

『涙は、嬉しい時、悲しい時、失望した時、心苦しい時、孤独の時に流れるもんだ。』と神様は答えた。「天才だな!」と天使は言った。

神様は感慨深げに見つめながら言った。「涙は…溢れ出す感情である」


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個人的にこの文章が言いたかったことは、「保育士の偉大さ」だと思う。

文章の写真における、物語の左側部分で、無理難題の機能を持つ保育士について言及されている。

それはつまり、保育士という仕事はそうじゃないと成し遂げられないという困難さを現しているのかなと思う。

特に、「6本の手を保育士は持たなければならない」という部分は、それだけ保育士の仕事は多忙であるということを示していると思う。

そして、両目を3つ持っているという表現がとても面白いなと思った。この表現によって、保育士が持つ視野の広さ(鍵のかかっている扉を注視したり、頭の後ろ側に目があったり…)や心の温かさ(一言も発せずに、目だけで子どもに愛情を伝える)を表すことが出来ていると思う。

ただ、このような保育士というのは現実ではたくさんいると思う。多忙な仕事の中で、きちんと仕事をこなし、子ども達に厳しさと愛情の視線を向ける保育士は、神様が6日以上の時間をかけても創造することが出来ない、”神以上の存在”であると言っても過言ではない。

なぜなら、テキストの右側で、神は「私にいくらか似たようなモノは既に作れた」と言っているからである。つまり、このテキストの右側にいるのは神に近い、神と同等の存在の保育士と考えられる。その保育士には達成できない無理難題をこなしているのがテキストの左側の保育士である。なので、左側の保育士は、神以上の存在であるということが考えられると思う。

だけど、右側のテキストで神が保育士を「私にいくらか似たようなモノ」と述べている時点で、保育士の偉大さが神レベルということを示されている。

で、天使に頬をさすられただけで涙を流す保育士は、それだけ感情に対して敏感であることを示している。そんな保育士が日々の子どもとの生活の中で喜びや悲しみといった感情をめいっぱいに感じながらも、保育士としての仕事に従事することは、まさに尊いの一言である。

この文章はコチラコチラで掲載されている。ある程度は名の知れた文章なのだと思った。後者のサイトでは、

Aber er gibt dennoch tiefe Einblicke in die Kompetenzen, die der Beruf einer Erzieherin erfordert.
この文章は保育士という仕事において要求される能力について深い洞察をくれる

と紹介されている。

なので、Ausbildungを始めたばかりの自分達に対して、先生は今日この物語を朗読したのだろうと思う。


文章の最後の涙の件は、個人的にはよく理解が出来なかった。だけど、この部分を読んで、自分はケツメイシの名曲「涙」を思い出した。

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