町田康「しらふで生きる 大酒飲みの決断」 酒を憎んで人を憎まず。
作家・町田康さんは30年大酒飲みを続けてきました。
その彼が数年前、ふっと酒を絶って思うことを書いたのがこの本。
脳はアルコールの何を欲するのかということから、「さびしく閉じた」人間の悲哀を語ります。
つまり、何を持っているか知らんが「自分は大した人間であるはずだ」というカン違い野郎だけがアルコールに走り、また、適応障害や鬱になるという話。
周りはその「持ちもの」にのみ目がくらみ、萎縮し、そして快楽をむさぼり、儲けようとしているだけ。持ち主に目がくらんでいるわけではない。
しかし当の持ち主、このズレに悩むヤツはいない。承認欲求は大いに満足する気がするし、社会的利益(カネと名声)が大きければなおのこと。
本人は自分に向き合わずに済み、その逃避場所でしこたま楽しめる。
こうして自ら「美酒」を追い求め、「酔い」に溺れていくことになる。
度数はさらに高まり、それが目的になり、やがて周りには「飲み友達」しかいなくなる…。
きっつー。
でも確かに人間みな「さびしく閉じて」いるわなあ。
都合のいい逃避場所さえあれば満足してしまう。
酒飲めば「開いた」気がするが、薬理的にはどんどん「閉まって」いって、開くには大量のそれがいるようになる。
そもは誰しもドラッグとはつゆ知らず、そのつもりで飲み始めるのではないのだから、酒を憎んで人を憎まずといいたいところ。
それにしても日本ではなぜか文学に酒がついてまわる。
シクシクメソメソ私小説の源流=アル中の太宰治。
編集者のタダ酒社用族の巣=文壇バーなる悪しき伝統。
現在でもアル中の作家がたくさんいる。
編集者が飲ませているのだが、アルコールで生気を蝕まれてメソメソな悩みにさいなまれ、それをつらつら書くのが文学だと勘違いする連中が多いから日本文学が衰退する。
酒で早世した中上健次も、酒がなければやがて世界に通じる作品を生み出したかもしれない。
酒が抜けていく際のあのネガティブな精神状態が、作品性と共通するものに感じてしまう。
でもなー、執筆中にその状態になることでリアルな作品が書けるわけではない。
しかしとにかく惜しまれる。
彼の表す肉体労働場面の描写は、心奪われる。
身体の骨があちこち変形するほどフィジカルワークを満喫してきている我が身には、切実すぎて目を背けたくなるほど。
石を山上に運びあげた瞬間、ふもとに転がり落ちる。これを延々繰り返すという罰を受けたシーシュポスの神話にあるような不条理が、肉体労働のもつ精神的苦痛。
朝起きた瞬間から早くも一日の終りを夢想する生活。
そんな刹那を、一つひとつのお決まりの手足の動作に饒舌に語らせる。
その中にも歓びを見出そうとするのが人間なるも、それを哀しい目で見つめる自分を排除できない。
もっと書いてほしかった。
まったくもって、酒を憎んで人を憎まず、なのです。