ピュアな出来損ない。偉大なるネーミング「ゆるキャラ」に宿る体温の正体。
ダサくうっとおしい。でも捨ておけない。
物産展などで、所在投げに突っ立っている。
遠慮がちに手など振ったりしている。
小さな子どもが時おり興味を示す以外、遠くからチラと見るぐらいで、近づく人はいない。
なんかへんなものがいたな。
その程度の印象で、みな忘れてしまう。
それが地方の町おこしのために作られていた、かつての着ぐるみキャラクター。
いや、地方のお役所さんたちのやろうとしている気持ちはすっごくわかるのです。
ただ、田舎の母親が送ってきたダンボールのリンゴのように、ダサくってうっとおしい。しかしもちろん、捨ておけない。
そんなちゅうぶらりんな存在に、どうしていいかわからなくなる。
だから、へんなものがいたな、で忘れるしかない。
みんな忘れた。
忘れなかったのが、みうらじゅんさん。
「なんだ、この場違いな哀愁感は」
そのとってつけたような明るさ。
その必死のパッチさ。
つまり、それ地方経済再生のため。
生き残るためのあがきの成れの果て。
これがわかりすぎるから、人はみな目をそむけちまうんだな。
わかる。わかるよ。
がんばってんだね。
応援するよ。
(でも、陰ながらね。ムリかもだから…)
こんな冷酷な視線が、見た人の中に生まれる。
心優しい人ほど苦しいんじゃないか。
でも、みうらじゅんさんの心優しさは、とんでもなかった。
彼は四六時中、このダサくうっとおしいキャラクターたちのことが頭から離れなくなった。
人は物語で世界と繋がっている。
キャラクターって、キャラが立つから成り立つのに、なにこの不完全さ。
美しくもないし、カッコ良くもない。
やる気をバンバン感じるのに、完全に空振ってる。
ゆるくキレのない、中途半端な出来損ない。
でも、それが一周まわって、何かが成り立っている。
あるべき姿からはずれているのに、なぜか愛すべき生命がそこにある。
そして生まれたのが「ゆるキャラ」なるネーミング。
「ゆるキャラ」という名前を耳にした人は皆、自分の中に生まれたあの冷酷さがなんだか救われる気がした。
同時に、自分の「ゆるさ」をも。
みな、忘れてなどいなかったんだ。
一生懸命やって、それで失敗している。
誰しも、なんともおバカでピュアな存在なんだ。
この自分だって。
「ゆるキャラ」という名前の発明で、何者でもなかったこのダサいキャラクターに命が宿りました。
そして一気に日本中にその存在を知らしめることになったのです。
「ひこにゃん」「くまもん」…。
何事も、名前があってはじめて存在できます。
名前は言葉。
言葉は物語。
言葉というのは、どんなに短いものであっても、そこに必ず、物語が展開されているもの。
人は、物語で世界と繋がる。
自分の物語が他人の中の物語と繋がっている。それは他人と体温を交換しあうようなもの。
この確信をいつも求めていたい。
ただの出来損ないに「ゆるキャラ」という名前がついただけで、物語がつながり「一人前」の存在になった。
ちょっと間の抜けたそいつ。
それって、もしかせずとも、自分自身の姿。
「出来損ない」に体温を感じた瞬間です。
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