リモート映画を作ることにした。その3:完成させなきゃ意味ない
これは現在進行形で行われているリモート映画の制作日誌です。
毎日更新を宣言しつつ、土日は書かなかっただけで何人かのガチ友人から「毎日更新してないじゃん」という指摘を受けた。日本って週休2日制じゃないの!?というツッコミをしつつまた今日から書き始める。
相変わらず、1人役者が決まっただけであとの2人が決まらない。
twitterで役者と書かれたアカウントにDMでも送っていこうかなと思っているが、それは最終手段な気がしてならない。6月初旬に撮影開始と銘打っているので、できる限り早い段階で見つけ出したいが、うまくいかないものだ。なんとなく脚本と演出方法も出来上がったのに、役者がいなければどうしよもない。
自主制作映画というのは妥協とトラブルの連続だ。
実はそういう時に反射的に現状を打開していくアイデアと行動力と決意がものをいう。そういう意味で映画の監督というのは偉大だ。
僕はなんでもだが「完成させないといけない」というポリシーを持っている。未完の大作には意味がないとも思っている。情けないぐらいショボくなってしまったとしても作品は作り上げれば、それは価値がある。つまらなくてもレベルが低くても完成させて世には放つべきだ。プライドなんかいらない。完成させればその分だけ確実にレベルは上がっていく。今回の出来はダメでも、次は必ずよくなる。
チャップリンが最高傑作を聞かれた時に「The next one」つまり、「次の作品だ」と答えたのと一緒だ。
だからそういう意味でも僕は今回のリモート映画は必ず完成させたいと思っている。
そういう意味で僕はディレクターの気持ちが分かる。
ディレクターは尺を埋めないといけない。Vを撮ってきて、どうにか形にしないといけない。その怖さが僕には痛いほど分かる。だからプレビューでVTRを見る時は基本的に大袈裟に反応をする。自分が撮った映像を人に見せる時はドキドキするし、反応が気になるものだ。僕もそういう経験をしてきた。だから、大袈裟に笑うし大袈裟に反応する。良い指摘はできない分、そうしている。
こうやってまたカメラを持つ側になると、優秀な作家が近くにいたら嬉しいだろうなという気分にもなる。相談できる壁打ち相手がいるというのは重要なことだ。放送作家というのは必要な仕事だとつくづく思う。
ちなみに、今リモート映画やリモートドラマを見すぎているせいで、リモート制作専門家を名乗っても良いのではないかと思い始めている。近々、リモートという撮影手法で斬新な作品を作っているものをまとめて公開してみようと思う。