ピアノという名の女の話
お釈迦様は、この世は男と女が互いに求め合う情欲・色欲の世界だと説かれました。
それは、私たち哺乳動物に本能として備わっているものであり、別の人は別の角度から「すべてはリビドーから生じる」という言葉でこの世界を表現しています。この言葉の真意を理解しようとする者には、人間の欲望と男女の関係性についての深い理解が求められるでしょう。
私はある女との縁によって「この世界の中心には女が母になろうとする引力が存在しており、男達は路傍で踊っているだけなのだ」と言うことを思い知らされたのです。
ここでお話するのは、私がタイのバンコクで知り合ったピアノという名の女の話です。
バンコクには、地元の一般庶民が利用する古びたサウナ施設が点在するエリアがあります。これらの施設は、不衛生な環境のため観光客には好まれないものの、東南アジアの環境に慣れた私にとってリラックスするには最適な場所でした。
ピアノはとあるサウナに併設された娯楽施設のコンパニオンとして働いていました。
ピアノはだいたい23歳くらいで、当時の私よりも10歳ほど年下でした。ホットパンツと日焼けした浅黒い肌が特徴で、クメール系の彫りの深い顔立ちと切れ長の目、そして黒く美しい瞳を持っていましたが、どこか暗い表情が印象的な可憐な女でした。
ピアノは愛想のない女でしたが、その影のある魅力に、私は妙に引かれていました。
周囲に人がいると寡黙だったピアノも、二人きりになるとよく話してくれました。
彼女はタイの中部地方の出身で、母親と血の繋がっていない父と弟と住んでいました。バンコクに働きに来てコンビニで働いてみたものの給料が安く直ぐに辞め、その後に繁華街で夜の仕事を初めたのでした。
ごくごく一般的な貧しいタイ人女性でした。談笑中にも時折見せるやや陰のある暗い表情だけが、彼女が私が知る平均的なタイ人と違っていた点でした。
他愛もない話の後別れ、もう会うことも無いと思っていました。
ある日、ピアノから金銭的に困っているとの連絡がありました。
私は女の話の真偽に初めから関心はありませんでしたが、私を利用しようとしていると直ぐに理解しました。少し考えましたが、殆ど知らない私を頼るということはよほど困っているのだろうと思うに至り、ネットバンキングで彼女に約一月分の生活費を一度だけ送金しました。こうして私たちの間に新たな縁が生まれたのです。
その後、私はバンコクを訪れ、滞在中はピアノの家に泊まることにしました。
ピアノの住む古い巨大な集合住宅の一室は、タイル張りの床に大きなベッドが中央に置かれた、殺風景で湿気のある部屋でした。ベッドの脇には小さな化粧台と物置テーブルがあり、そこに安物の日用品が少しだけ置いてありました。
夕方、ピアノは仕事に出かけ、部屋の鍵を私に預けました。
私は部屋で彼女を待っていましたが、約束の時間を過ぎても戻らず、深夜日付が変わる頃に「現在、帰宅中」と連絡がありました。
湿気たベットの上で心配で眠れないまま不安な時間を過ごすことになりました。そして私は、女が私をどのように私を利用しようとしているのだろうという妄想に一晩中苛まれることになりました。彼女はとうとう朝になっても帰りませんでした。もし日が高く登っても連絡が来なければ、荷物を他のホテルに移して警察に相談しようと決めました。
昼前頃に、ピアノから「深夜に帰宅途中のタクシーの中で気を失い、今は病院のベットの上にいる」と連絡がありました。私は安堵しました。同時に昨晩の辛い体験へと誘った彼女に対して怒りが込み上げてきました。加えて私は昨晩の悪夢によって「彼女が最悪の方法で私を利用しようとしているかもしれない」という妄想も引き起こしており、いずれにせよもう付き合っていられないと思っていました。
私は女の話の真偽には初めから関心がなかったので、いちよう安否の確認ができた彼女の身をそれ以上心配することを拒絶し、女の前から逃げ出すことを選択したのです。
あとから考えると、私は初めから女に利用されてもいいと納得した分だけ利用されよう計画し、本当に利用しようとしていたのは実は私の方であったのかもしれないと思うのです。
それ以来、彼女から再び連絡が来ることもなく、再び会うことはありませんでした。
ほどなく私はタイを離れ、住んでいた国に帰りました。
それから数ヶ月ほど経ったある日、ピアノのSNSに新しい一枚の写真の投稿がありました。
産まれたての赤ん坊の写真でした。赤ん坊はピアノの子のようでした。
私は全く気付かなかったのですが、どうやら彼女は再会した時から、あるいは最初に金を頼んだ時から、すでに母親になろうとしていたのでしょう。
私の心中は複雑でしたが、最後には私はこの母子の健康と幸福の祈り、彼女と私の袖触れ合った多少の縁に感謝することができました。少しのお金を渡して去った旅の男にも、新しい命が誕生したことに喜びを分け与えてくれたのですから。
それから暫くのちに、私は母子が幸せに暮らしていることを期待して彼女のSNSを見ました。
最後にピアノが書いた投稿は随分前の日付になっており、一言「死にたい」とだけ書かれてありました。
私は母子の安否が気になりもしましたが、逃げ出した者が今更何かをするべきではないと自覚していました。
また縁があれば彼女の消息を知る運命もあるでしょうが、私がその日をまた待つ事はありません。
女との出会い。母子の誕生と消失。これはごく短い間の出来事でした。
この世のあらゆるものは移り変わっていくとはよく言われますが、
私という個人の意識が捉える世界の見え方だけが変わっていくだけのように思えるのです。
ピアノという女の短い物語でした。
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